ヨハネの黙示録11章
6章から始まった封印の裁きにつづいて、私たちはらっぱの裁きを見て来ました。この11章では、七つ目のらっぱをもって患難時代が後半へと入っていきます。
それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。(11:1)
第三神殿
まず注目すべきことは、「神の聖所と祭壇」という言葉です。これは、やがてやって来る七年間の患難時代に「エルサレム神殿」が存在しているということです。つまり、今後、ユダヤ人たちはエルサレムに再び神殿(大三神殿)を建てることになるということです。
イスラエルにはこれまで、ソロモンの神殿(第一神殿)、バビロン捕囚から帰還して再建したゼルバベル神殿(第二神殿)がありました。第二神殿は、ヘロデ大王によって大幅に増改築されましたが、しかし、紀元70年にローマに攻め滅ぼされます。以来、エルサレムには神殿がありません。ご存知の通り、現在の神殿の丘にはイスラム教のモスク(岩のドーム)が建てられています。
「彼(反キリスト)は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。…」(ダニエル9:27)
反キリストが、多くの政治的指導者たちと契約を交わし、ユダヤ人に対して神殿内でのいけにえとささげを一時的に許可し、三年半後*1、患難時代の後期に入って彼はそれを禁じるようになるのです。ここでポイントになることは、神殿が存在しないとこの預言は成就し得ないということです。後に詳しく見ることになりますが、反キリストはこの神殿で自ら神宣言をします。この神殿は、神ご自身が喜ばれる真の神殿ではありません。
ふたりの証人=預言者
さて、暗闇に覆われている患難時代ですが、神は「ふたりの証人」たちを通して、ご自身の御心を現されます。彼らは患難期の前半、エルサレムにおいて三年半に渡って悔い改めのメッセージを宣べ伝えます。彼らは預言に伴って力強い奇跡を行いますが、しかし、反キリストによって殺され、その遺体が全世界に対して晒しものにされます。人々は、おそらく衛星放送やネット中継などでこの預言者たちの遺体を眺め、その死を喜んでプレゼントまで贈り合うのです。
また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。(11:10)
神の裁きを受け、神の言葉を聞きながら、しかし、それでもなお悔改めようとしない人々の頑なさを見る時、人間はなんと救いがたい存在なのだろうかと思わされます。そして、本来は私自身もその一人だったのだ…と。しかし、聖書は、主イエスを信じ、忠実にこのお方に従おうとする者たちに次のように語っています。
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(1テサロニケ5:9)
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(黙示録3:10-11)
二人の証人は、三日半の後、再び命を与えられ、天へと引き上げられます。私は、我々がこの七年の患難時代を通ることはないと確信しています。しかし、どのような時代にあっても全ての人が様々な患難に遭います。特に信仰ゆえに誤解されたり、孤独になることもあるでしょう。また、場合によって迫害を受けることがあるかもしれません。そのような中で仮に命を落とすようなことがあっても、それで終わりではありません。私たちには復活があり、キリストと共に永遠に生きることが約束されているのです。
第七のらっぱ
15節で第七のらっぱが吹き鳴らされ、ここから患難時代の後半が始まります。ここでは七つの鉢の裁きという、最も激しい災いが地にもたらされます。神の裁きほど公正で厳密なものはありません。私たちは、それに対して「不当だ!」とか「なぜ?」と口を挟む立場の者ではありません。これらの厳しい裁きは、それを受けて当然の悪(を行った者たち)に対して注がれる神の怒りであり、また、王としての統治でもあります。私たちは、裁き主であり王である主を恐れかしこみつつこのように告白したいと思います。
「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。…万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。」(11:15,17)
危機感、切迫感を持ちつつ、同時に冷静さ、地道さ、そして、希望を忘れずに…。簡単ではありませんが、このバランスを追い求めていきたいと思います。
*1:三年半を表すために「一時と二時と半時の間」(黙示12:14, ダニ7:25, 12:7)「四十二ヶ月」(黙示11:2, 13:5)「千二百六十日」(黙示11:3, 12:6)などの異なった表現が用いられている。