道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨハネの黙示録13章

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13章には二匹の「」が登場します。これらの箇所を読んでも、すぐに「こういう意味だ!」と理解することは難しいですね。学者たちの中でも様々に意見が分かれます。患難時代がやって来た時、地上に残された人々の中で「ああ、この箇所はこの事を言っていたのだ」とはっきり分かる「思慮ある人々」(13:18)がおそらく現れるのだと思います。

 

1節には、海から上がってきた獣について記されていますが、これ文字通りの動物ではなく、ある「人物」を象徴していると考えられます。それは、獣を表す六百六十六という数字が「人間を指している」(13:18)と言われていることからも分かります。この人物は、海を取り囲む異邦人諸国から出てくる反キリスト(偽キリスト)と考えられます。この人物は「竜(サタン)」から力、位、権威を受け、支配者として君臨します*1

 

この反キリストは、欺きを持って人々を惑わし、虜にしていきます。瀕死の重傷からも回復し、ほとんどすべての人々が彼とサタンに心酔し、彼らを礼拝するようになります。彼は神を冒涜し、三年半の間、活発に活動をします。獣の刻印(13:16-17)というものが何であるか正確には分かりませんが、マイクロチップ等を身体に埋め込んで電子マネーで物の売り買いをするとった技術との関連を言う人々も少なくありません。いずれにせよ、生活のすべての領域がこの獣によって牛耳られるという時代です。

 

そのような中、患難時代にキリストを信じた聖徒たちだけが獣礼拝を拒み、迫害に遭って多くの殉教者が出ます。彼らは忍耐と信仰(13:10)をもって生き抜きます。今の時代に生きる私たちも、そのような者でありたいと願います。

 

また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、のようにものを言った。この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。(13:11-12)

 

このもう一匹の獣について、多くの学者たちは「反キリストと共に働く宗教指導者」であると考えています。彼は、小羊であるイエス様をも真似て、竜(サタン)のように狡猾に語って人を惑わす人物です。竜(サタン)と、獣(世界的な政治指導者である反キリスト)、もう一匹の獣(世界的な宗教指導者)とがまるで“三位一体”を構成するようにして、真の神に敵対します。

 

真の三位一体の神は、ご自身が持っておられる「交わり」「一致」に私たちを加えようとしてくださいますが、偽りの三位一体も人々を「ひとつ」にしようとするのです。それは、神を中心としない偽りの交わり、偽りの一致、偽りの一体です。これは患難時代に限らず、全ての時代においてサタンが用いる方法です。

 

日本人は空気を読み、和を重んじます。それは日本人の良い面でもあるのですが、サタンに付け込まれる危うさも大いにはらんでいます。「赤信号皆で渡れば怖くない」というように、ついつい空気に流されてしまい、「それは違うんじゃないか?」「本当に神様のみ心に沿っているだろうか?」と問いかけることができなくなってしまうのです。しかし、果たしてそれで良いのか…。

 

私もそのような弱さ、危うさを持つ一人であることを認めざるを得ません。どんな状況の中にあっても、ただ神の助けによって私たちが「私は聖書の神だけを礼拝します」という信仰に立ち続けることができるようにと切に祈ります。

 

1940年10月17日の神嘗祭(かんなめさい)の日に、神武天皇即位紀元2600年を記念するための皇紀二千六百年奉祝全国基督教*2信徒大会が2万人の信者を集めて青山学院で開かれた。大会は宮城遥拝の国民儀礼で開始され、この日のために創作された天皇への「讃美歌」が歌われた。その後、集まった会衆はこぞって明治神宮に参拝したのである。1942年1月11日には、当時の統合された教団統理が伊勢神宮を参拝し、天照大神あまてらすおおみかみに日本基督教団の発足を報告し今後の発展を祈願した。そればかりか、各教会に神棚を設置して伊勢神宮の護符を祀るよう指導したのだ。…

 

…戦後の日本のキリスト教界の反省が、この偶像問題を直視するよりは、国策における戦争問題ばかりに目が行っているのはなぜなのか。国家の戦争責任やアジア諸国への謝罪は毎年のように聞いてきたし、政治体制、軍国主義への批判は何度も耳にした。だが、前者に比べればまったくと言っていいほどキリスト者の妥協の罪に触れられないのはどういう訳なのだ。無関心や無理解、短慮を勘案しても、「国がいけないのだ」「戦争がいけないのだ」「我々は被害者なのだ」と、そこに問題の本質の誤魔化しを認めざるを得ない。権力によって強要されたことを大前提にしても、私たちは信者としての責任から逃れることができるはずがない。より重大な信者の霊的不貞の告白と懺悔をなおざりにしては、戦争責任を告白しても、国策を非難しても、その声は虚しく響くだけだ。そこに見過ごすことのできない重大な欺きと隠ぺい責任転嫁を認めざるを得ない。

 

上の引用は、以下にリンクを貼る小論文からのものです。著者を私は直接存じ上げませんし、神学的には立場が異なる部分も少なくないのですが、それでもこの小論について多くの部分で本当にそうだと頷かずにはいられませんでした。ぜひお読みいただければと思います。

 

戦後70年、荒野で叫ぶ者の声-主旨-.pdf

 

 

 

内村鑑三と再臨運動―救い・終末論・ユダヤ人観

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キリスト者の戦争論 [地引網新書] (地引網新書 1)

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ティンデル聖書注解 ヨハネの黙示録

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*1:ダニエル書7章にはこの「獣」について次のように預言されている。

 

…第四の獣は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。(ダニエル7:23-24)

   

ダニエル書には、バビロン(獅子)、メド・ペルシャ(熊)、ギリシャ(ひょう)という三匹の獣が出てきたが、四番目の獣は、ローマ帝国である。反キリストは、復活したローマ帝国の独裁者となると考えられる。

*2:キリスト教