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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

詩篇119篇

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詩篇119編は「みことば詩篇」とも呼ぶべきもので、神のことばの麗しさ、それを信頼して歩むことの幸い、また、もっと深く知りたいという願いに満ち溢れた詩です。この詩篇は、私たちの手にしている聖書全体の中で最も長い章でもあります。ここから、二つの「ショウメイ」について学んでおきましょう。

 

聖霊の内的証明

 

この詩篇記者は、119篇の中で何度も繰り返しみことばの信頼性を大胆に告白します。 

 

あなたの仰せはことごとく真実です。…主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。(119:86a, 89)

 

それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します。それゆえ私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます。(119:127-128)

 

みなさんは彼と同じような告白をすることができますか? この詩篇の記者はどうしてここのような告白ができたのでしょうか。彼の内側に起こっていた出来事を、専門的に「聖霊の内的証明」(Testimonium Spiritus Sancti Internum)」もしくは「内的証言」と言います。

 

聖霊が信仰者の心の中に、神の言葉の至高の権威に対する、堅固で永続する確信をもたらすところの、この聖霊の働きをわれわれの父祖たちは『聖霊の証言』と呼ぶのが常であった」(改革派教会の神学者、オランダ元首相、アブラハム・カイパー)

 

つまり、御言葉の著者であられる聖霊ご自身が、私たちに「御言葉の権威を確信させてくださる」ということです。もっと言えば、聖霊が信仰者の内側で「聖書のいっていることは本当だよ。信頼しなさい」とその人自身に対して証言し続けてくださるということです。

 

つまりこれは、私たちが自分の理性に基づいて聖書を隅から隅まで吟味し、その上で「はい、これは信頼に値しますね」と認めるということではないのです*1。キリスト者には、不思議な聖霊の働きによって聖書に対する信頼・確信が与えられます。そして、その信頼を土台にしながら、与えられた理性・知性を最大限用いて聖書を理解していくことに努めるわけです。

 

私たちもこの詩篇記者と同様に、素直に熱心に御言葉を信頼し、それを大胆に告白しましょう*2。「みことばは真実です!」「これこそが私の物差しです!」と…。そして、その上で、自分自身の解釈が正しいかどうかを吟味するために懸命に聖書を学び、調べる…。これが私たちの取るべき態度です。初代教会時代のベレヤの信仰者たちはまさにそのモデルですね。

 

ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。(使徒17:11, 新共同訳)

 

聖書の内的照明

 

もうひとつの「ナイテキショウメイ」があります。上の「内的“証明”」とは異なり、今度は「内的照明」(Illuminatio Spiritus Sancti Internum)もしくは「内的啓明」です。聖霊が私たちの内に光を照らし、御言葉の意味を正しく悟るように導いてくださるという働きです。

 

内的“証明”によって聖書を信頼する心が与えられていたとしても、聖書全体が隅々までよく理解できるとは限りません。むしろ、私たちは一所懸命聖書を読んでもなかなか理解できない経験をよくするのです。だから、聖霊の助け、内的“照明”が必要なのです。この助けを祈り求めながら聖書に向き合うとき、神様は働いて理解を助けてくださいます。

 

私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。(119:18-19)

 

あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。(119:27)

 

主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。(119:33)

 

みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。(119:130)

 

ちょっと難しい言葉ですが、二つの「ショウメイ」はとても大切です。このブログを続けて読んでくださっているあなたにはおそらく「内的証明」が与えられていることでしょう。「聖書は神のことば、揺るぎない真理の書」という確信を深めていってください。そして、「内的照明」を求めながら、御言葉を共に学び続けていきましょう!

 

 

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*1:「聖書が信頼できる神の言葉である証拠を見せろ!」と言う人々がいる。確かに我々は「証拠を見たら信じる」といったものの考え方に慣れ親しんでいるかも知れない。近代の合理主義は、まさに理性によって全てを疑い、吟味することからスタートしたといえるだろう。しかし、それを真に突き詰めたなら、人は「確かなものなど何ひとつない」といった考え方に行き着いてしまう。人は、この世界の存在、自分自身が存在していることさえ確かに証明することができないのだ。まして、この世界や命に、特別な意味や価値や目的があることなど証明することはできない。「証拠を見せろ」という考え方の先には、実はそのような断崖絶壁が待っているのだ。

 

しかし、それでは生きていくことができないので、人は証拠を突き詰めることを止め(つまり、理性を偽り)、結局、絶対的な真理や事実よりも「心の中の真実」が大切といった考えに答えを見出すようになる。

 

さらに、現代では「あなたの真実も、それとは違う私も真実も、どれも正しい」といった考えが主流になっている。つまり、「1+1」の答えは「2」でも「5」でも「100」でも良いといった考えである。理性で全てを吟味することからスタートしたはずなのに、すっかり理性とはかけ離れた個人の主観の世界に陥っているのだ。

 

それに対して、我々は聖霊の導きにより、全ての「前提(a priori)」として神の言葉を受け入れ、それに基づいて考えと行動を突き詰めていく。そうし続ける時、我々は自らの論理と生き方が調和していく(乖離していくのではなく)のを見ることになるのである。そして、このことは、我々の前提が真理であることを力強く証ししているのである。

 

前提主義 - Wikipedia

絶対的真理・世界的真理というようなものがありますか?

ポストモダニズムの危険性はどこにありますか?

*2:日本基督教団・信仰告白でも、次のように記されている。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」しかし、実際にこの告白に生きている教会は決して多くないのではないだろうか。