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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

『沈黙』と新生

時事 神学 弁証論 随想 読書

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「お前は踏み絵を踏むのか?」 

 

牧師の家庭に育った私は、学校で「キリシタン!」と呼ばれたり、上に書いたような質問を冷やかし半分に投げかけられたことが少なからずある。

 

それが真剣な問いではなく、そこに嘲笑する意図を感じて、何とも言えぬ不愉快な思いを味わった。仲間はずれにされることを恐れつつ、イエス様を裏切っちゃいけないんじゃないかとも思い、どう答えて良いか分からず、「知らねーよ」なんてぶっきら棒に答えたように思う。

 

 

皆さんは、遠藤周作の小説『沈黙』、あるいは、それを原作としたM.スコセッシ監督の映画『沈黙ーサイレンス』をご覧になっただろうか。

 


『沈黙-サイレンス-』予告

 

 

 

映画『沈黙』についての優れた論評は、すでに様々なところで見ることができるので、私は、自分自身が特に考えさせられたことの一つをここに記しておくことにした。この内容は、小説や映画を見ていない人にとっても関わりのあることだ。

 

 

 

「踏み絵を踏むか、それとも踏まないか…。」

 

 

それこそがキリシタンであるかないかの境目になったという見方がある。また反対に、そんなものは心の中の問題だから、仮に踏んだとしても自分の内面で信仰を持っていれば構わない(心情の問題)のだという考え方をする人々もいるだろう。

 

一体、キリシタンとは何か…。どんな迫害があっても、踏み絵を踏むことを拒んで処刑されることも厭わない人か…。それとも、心のなかで「イエス様、ごめんなさい」と言いながら踏み絵を踏む人か…。

 

一体、真のキリスト者とは何か…。決して罪を犯さない完全無欠な人のことか…。熱心に伝道し、献金し、奉仕する人のことか…。それとも、洗礼を受け、教会の組織に「会員」として登録されている人のことか…。クリスチャンホームに生まれ、「我が家の宗教はキリスト教です」と答える人のことか…。

 

その人が、真の意味でキリスト者であるか否かの「決定的な分かれ目」はどこにあるのだろうか…。おそらくこの点に関して、遠藤周作もスコセッシ監督も、また、当時の宣教師たちも、踏み絵を踏んで命を捨てていった人々自身さえも、信頼に値する明確な答えを持っていないように私には思える。

 

そして、自分自身をクリスチャンではないと考える多くの人々はもちろん、自分自身をクリスチャンと考える多くの人々の中にも、この点についての誤解や混乱があるように思えて仕方がない。そして、私がこれから述べる見解に同意しない人々も少なからずいるだろう。

 

 

しかし、私がこれから述べることは、譲ることが出来ない確信である。

 

 

その人がキリスト者であるか、否か、別な言い方をすると、真に(キリスト教的な意味で)救われているか、否かということは、外面的な何かにかかっているのではなく、神ご自身がその人に新しく生まれさせたかどうかにかかっている。

 

ヨハネの福音書を見ると、「神のご意志によって生まれる」という内容が出てくる。

 

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれたのである。(ヨハネ1:12-13)

 

父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。(ヨハネ5:21)

 

これらの御言葉は「新生」というテーマについて私たちに考えさせてくれる。

 

罪によって神から隔てられ、つまり、霊的に死んでいた私たちの内には、自分自身の方から神を求めたり、神を信じようとしたりする力が全く無かった。しかし、神が、(なぜかは分からないが)ある人をお選びになり、その人を霊的に新しく生まれさせるという出来事が起こる。これが「新生」である。

 

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」…イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。(ヨハネ3:3, 5-6)

 

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5)

 

これらの御言葉にあるように、この新生の出来事は聖霊によってなされる。

 

父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。(ヤコブ1:18)

 

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(1ペテロ1:23)

 

また、ここに記されているように、人を新生させる際に聖霊は、ご自身の言葉であるところの御言葉と共に働かれる。したがって、正しく大胆に御言葉が宣べ伝えられ、聖霊が働かれる時、神がご自分の意志によって選んでおられる人物が「新生」し、真の意味でキリスト者とされる(救われる)という出来事が起こるのである。

 

 

この出来事は、普通のことでも自然なことでもない。もし、棺桶に入った死人が葬式の最中に生き返ったら、我々は仰天してひっくり返るだろう。

 

霊的に死んでいた人物が、新しく生まれ、神の命を宿すようになることはそれほどの出来事なのである。これを可能にするのは、キリストの復活の命であり、復活を実現させた神の大能の力である。

 

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(1ペテロ1:3)

 

新生させられた人物は、新生児が肺呼吸をするかのように、霊的に死んでいた時には持ち得なかった信仰を持ち、御言葉の乳を飲み、成長していく…。

 

つまり、真に新しく生まれた人物は、その人が神に選ばれて救われた者としての特徴を帯びていくようになる…。確かに、この地上において完全な人にまで達することはないし、新生したけれども未だ幼い段階の信仰者もいる…。

 

それでも、その人が御言葉と御霊によって生まれた、神の御心による真の新生者ならば、その人のキリスト者としての特徴は否定し難いものになっていくはずである。

 

その特徴についてはここで詳述しないが、簡単にいくつか挙げておく。例えば、信仰を告白する(ローマ10:8-10)、神を愛し続ける(1ヨハネ4:19)、悪を嫌悪し、自らの罪を悲しんで悔い改める(2コリント7:8-10)、主からの懲らしめを受けながら成長して実を結ぶ(ヘブル12:5-11)など。

 

そして、この人物は、最終的にキリストが来られる時、完成させられる(ピリピ1:7)。

 

逆に、神について考えることもなく、神に感謝することもなく、神を喜ばせることや神に仕えることに何の関心もない人物が、過去のある時点において「洗礼を受けた」とか「罪人の祈り」を唱えた*1とか、そういったことを理由に「この人はクリスチャンです」と見なされるべきではない(少なくても安易にそうみなされるべきでない)ということである。仮に本人が自分自身をクリスチャンであると考えていたとしても、周りの人がそのように見なしていたとしても、その人が本当に救われているかどうかを疑ってあげるほうが愛と知恵のある見方だと私は考える。

 

それは何も、何かエリート的特権意識を持ってその人を見下したり断罪したりするということではない。

 

聖書的に正しく「選び」の教理を理解するなら、私たちは誇るどころか、むしろ謙遜にならざるを得ないのであって、誰かを見下すことなどできない。私たちは「私のような罪人が選ばれ、救われているのは全く不可解であり、ただただ畏れをもって感謝するほかない。」と考えるべきである。そして、まだこの救いに与っていない(あるいは、救いの確信が乏しい)あの人、この人のために熱心に祈り、その彼(彼女)を熱心に愛し、福音を伝えよう」と考えるはずである。

 

踏み絵を踏みつけることを拒み、壮絶な死を遂げた人々が大勢いる…。また、転び方もいろいろだっただろうが、踏み絵を踏み、棄教した人々がいる…。洗礼を受けた人がいる、受けていない人がいる…。教会に通っている人がいる、通っていない人がいる…。しかし、外面的なことが究極的に大事なのではない*2。最も重要なのは、神による新しい創造(新生)が起こっているかどうかなのである。

 

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)

 

  

新しく生まれているか、いないか…。

 

 

これが分かれ目なのだ…。この件について全く語り足りないし、言葉足らずでかえって誤解を招くかもしれないとも思いつつ、とりあえずこれぐらいで切り上げることにしよう。続きはあるかも、ないかも。

 

 

 

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※特にオススメしたい記事のリンクは以下に貼っておく。

 

【ロゴスミニストリー明石清正氏のブログ】

www.logos-ministries.org

 

【東京基督教大学、故・小畑進教授の論文】

http://www.tci.ac.jp/wp-content/uploads/2017/01/silence_obata_.pdf

*1:英語ではSinner's prayerと呼ばれる。「あなたはイエス様を信じますか。もしそうなら、私の後について祈ってください。いきますよ。イエス様…」「イエス様…」(中略)「私の心にお入りください…」「私の心にお入りください……」と、導き手が誘導するままに祈らせていく。クルセード型の伝道集会の終わりに、説教者が「招き」に引き続いてこの祈りを導く場合もあるし、個人伝道の場でなされる場合もある。もちろん、事前に聖霊と御言葉によって十分に働きかけが為されており、機が熟した状態でその祈りが捧げられることもあるだろう。しかし、導き手の誘導に“よって”、この祈りが“作り出されて”しまう場合も少なくないと私は考える。そして、真の新生が起こっていないにも関わらず、この祈りを祈ることによって自動的「彼は、キリストを受け入れた」「救われた」といった評価(お墨付き)がなされてしまうケースがあるのである。この「決心主義」の問題については、以下リンクのブログが詳しい。私はブログ主を個人的に知らないし、全記事を読んだわけではないが、有益な情報を紹介しているように思われる。ここでは、優れた説教者であり著述家であったA.W.トーザーの記事の翻訳が紹介されている。

 

blog.livedoor.jp

*2:既に述べたように、真の新生には新生者としての特徴が伴う。しかし、踏み絵を踏んでしまった人々の全てが新生していなかったと断ずることも出来ない。真のキリスト者も罪を犯す事があり、信仰的に妥協した言動をしてしまうこともある。また、これは述べるのが非常に心苦しいことであるが、あの処刑された人々の中には、新生していなかった、おそらく、誤った信念のために命を賭した人々もいたのであろうと、心を痛めつつ私は今のところ考えている。しかし、仮にそうであったとしても、何らかの信念のために敢えて命を捨てるという姿を見て、私自身は自分の信仰の在り方を問われずにはいられない。そして、もちろん、処刑された人々の中に、迫害の中でも信仰を貫いた、新生した真の信仰者がいたことを私は信じている。