道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

同性愛、同性婚について、聖書をどう読むか(1)

f:id:mentoringservant:20170923142453j:plain


しばらく前のものですが、以下のリンク記事を読んで考えさせられることが多くありました。以前にも少し記しましたが、「同性愛」「同性婚」について、私の考えを記したいと思います。はじめに断っておきますが、私は多くの部分でこの記事の著者の主張に同意できません。しかし、部分的には理解や共感のできることも書かれていました。

 

www.huffingtonpost.jp

 

Baconさんの主張で、うなずける部分

 

この記事を書いたBaconさんという同性愛の権利活動家の主張は、大まかに以下のとおりです。

 

・彼女の同性婚を非難するクリスチャンたちから、憎しみをともなった醜い声がぶつけられたり、ソーシャルメディアの妨害を受けたりした。

・同性婚をしたからといって、誰にも迷惑をかけていないはずだ。どうか放っておいてほしい。

・そもそも「聖書に書いてある」と言って、同性婚や同性愛を非難する人々の中には聖書理解の矛盾があるのではないか。その人々は、レビ記などにあるモーセの律法をすべて守って海老やベーコンを食べないのだろうか。 

 

一つ目のことですが、確かに、何かに対して異議を唱える時に、謙遜で柔和な態度を忘れて、見下す態度をとったり、辛辣で意地の悪い口調や態度をとってしまうことが私たちにはあります。誰かの罪を指摘しながら、高慢や自己義認という愚かな罪を犯してしまうことが少なからずあります。仮に正しい内容であっても、それを誤った態度でそれを語る場合があるのです。自戒を込めて言うのですが、そのような態度はもちろん避けるべきことです。愛をもってその人と対話をすることなしに、誰かについての噂を周りに言い広めるなどの行為も大きな誤りです。

  

ameblo.jp

 

また、Baconさんが指摘しているように、あまりにも不勉強な状態で「聖書がダメと言っているからダメだ!」という主張をする人々がいるのかもしれません*1。矛盾に見える点を指摘されて、簡単な問いかけにも答えられないようでは他者を批判する資格は乏しいでしょう。もし聖書が本当にダメと言っている事柄ならば誰がなんと言おうとダメであると私は確信しますが、まずは「本当に聖書はそう言っているか」ということをしっかりと確認すべきです。「聖書を重んじるクリスチャンである」と自覚する者であるなら、聖書全体を正しく理解し、その正しい理解に基づいて物事を判断し、語り、それにそって生きるよう努めなければならないのです。聖書の不正確な理解に基づいて誰かを攻撃したり、聖書の一部だけを都合よく利用したり、勝手な解釈を施したりすべきではありません。

 

それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(第一ペテロ1:20-21)

 

また、LGBTやそれを擁護する方々が訴えている「性別」「性的指向」「性自認」に関する主張、考えについて、また、抱えている繊細な感情やストレスについて全く無知な状態で、彼らを軽々に断罪することも慎まなければならないと思います。私もまだ十分ではないものの、努めて、立場の異なる方々の主張についても聞き、目を通すように心がけています。

 

さて、ここまで記したような意地の悪さ、不遜さ、侮辱、偏り、聖書解釈のいい加減さや無知ゆえに、傷つけるべきでない誰かを傷つけたり、誰かを戸惑わせたりしたことがなかったか…。私自身にも少なからずあると思います。

 

ですから、私はただ、私の罪の刑罰を身代わりに背負うため十字架にかかられた主イエスに対して「罪人のわたしを憐れんでください」と赦しを求めるほかない者です。そして、「私を罪の誘惑から遠ざけてください。私の心がキリストの心と似たものに変えられますように」と祈り続けたいと思っています。

 

それらのことを踏まえた上で、しかし、私は聖書的な確信に基づいて同性愛が罪であると考えますし、同性婚を本来の結婚の在り方の一つとして認めることはできません。そして、Baconさんは「誰にも迷惑をかけていないのだから放っておけ」と言いますが、残念ながら放置できない問題なので、このことを敢えて取り上げているのです。

 

 

モーセ律法は、私たちに対して法的拘束力を持っているか? 

 

Bacon氏は、レビ記などの食物規定を引き合いにして「同性愛が罪だと言うなら豚肉やエビを食べることだって罪じゃないのか」という趣旨の主張をしています。「もしモーセ律法の法的拘束力を根拠に同性愛を糾弾するのであれば、同じモーセ律法に含まれる食物規定も守るべきでなはいか」という論理は、もっともであると私も思います。これに対する答えを持たずして、「同性愛は罪だ!レビ記に書かれている!」と拳を振り上げることは慎むべきでしょう。

 

クリスチャンが聖書を正しく解釈するためには文脈を理解する必要があります。歴史的・地理的な文脈、旧約か新約かという文脈、著者や直接の読者が誰かという文脈、書(巻物)における文脈、直前直後の文脈などを無視するならば、どんな恐ろしい解釈でも自由にできてしまいます。

 

豚肉やエビを食べてはならないという食物規定を含む、613の規定からなるモーセ律法は、イスラエルの民にのみ*2直接の拘束力を持つものであると私は信じています。さらに、主イエスがこの律法を成就し、終わらせたゆえ、現在はユダヤ人も含めてどんな人に対しても、法的拘束力を持たないと私は考えています*3

 

この613のなかには有名な十戒も含まれますが、あの十戒さえも、現代の私たちに直接の法的拘束力は持たないと私は考えます。モーセ律法のある部分だけ(たとえば祭儀に関する掟)は過去のもので、ある部分(たとえば道徳的な掟)は現代にも有効だと考える人々も確かにおられますが、律法は全体としてひとつであるはずなので、一部だけを特別に扱うことは不適切であろうと考えています*4

 

では、これらの律法は現代を生きるクリスチャンと完全に無関係なのかというと、そうではないでしょう。律法は法的な拘束力において効力を失っていますが、多くの面で有益です。私たちは律法を学ぶことで、神ご自身の聖いご性質を知ることができますし、礼拝について、人間の罪について多くを教えられます。

 

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(2テモテ3:16-17)

 

「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:12)

 

また、十戒に含まれる教えとほぼ同じ内容の勧めが、新約聖書の中でも繰り返されています。モーセに律法を与えたのと同じ神が私たちの神ですから、教会に対する教えの中にも律法と共通する原則が含まれているのです。

 

さて、一旦話を戻しましょう。上の記事にあったように、現代のクリスチャンが「モーセ律法の法的拘束力」を根拠に持ち出し、それだけをもって同性愛を糾弾することは誤りでしょう。しかしもう一方で、現代のクリスチャンが同性愛や同性婚を「愛のひとつのあり方」「神様はそれを祝福なさっている」と考えることも誤りであると私は確信しています。

 

(次回に続く)

 

 

この問題を詳しく考えたい牧師・宣教師・神学生などは、ぜひ手にすると良い本であろう。様々な立場に立つ専門家たちの主張を比較することができる。

キリスト教は同性愛を受け入れられるか

キリスト教は同性愛を受け入れられるか

  • 作者: ジェフリー・S.サイカー,森本あんり
  • 出版社/メーカー: 日本キリスト教団出版局
  • 発売日: 2002/05
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

 

 

詳しく考えたい人のために、 ブログ著者とは大きく異なる立場で書かれている書物も紹介しておく。

ラディカル・ラブ

ラディカル・ラブ

 

  

教会と同性愛―互いの違いと向き合いながら (新教新書)

教会と同性愛―互いの違いと向き合いながら (新教新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:『教会と同性愛』(アラン・A・ブラッシュ著、新教出版社)という、同性愛擁護の立場で書かれている書物には「すなわち、この章句の一節(ブログ著者注:レビ記における男性同士の性行為の禁止を言う箇所、レビ18:22, 20:13)だけを神の権威を持つものとして取り上げ、他方で、それと並んで存在しているそんなに多くの章句(ブログ著者注:食物規定など)を、今日のわたしたちに適用し得ないものと決めてかかることが、どうして可能なのだろうか、と。この疑問にどのように答えるのか、わたしには分からないし、そう決めつける人に聴いても、満足できる答えをもらっていない。」とある。これは、もっともな主張かもしれない。しかし、Baconさんやこの書物の著者が問題にしているような、無知に基づいて乱暴な主張をする人が実際にそれほど多くいるのかは分からない。確かにネット上の悪口、陰口レベルではそのような人がいることを知っているが、Baconさんやブラッシュ氏の主張(批判)が、幾分か「ストローマン」批判になっているのではないかと私には感じられるのだ。聖書的な価値観に基づいて同性愛を罪と見なす、いわゆる“保守派”の学者や牧師たちの中で、ただレビ記の一節のみを根拠に同性愛を手厳しく非難し、その上、その他のモーセ律法を遵守しない理由について何の説明もできないような人を私は知らない。

 

*2:「見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、入って行って、所有しようとしているその地の真ん中で、そのように行うためである。これを守り行いなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」と言うであろう。まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」(申命記4:5-8)「主はヤコブには、みことばを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。主は、どんな国々にも、 このようには、なさらなかった。さばきについて彼らは知っていない。ハレルヤ。」(詩篇147:19-20)「あなたがたは、 わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである 。」(ミカ4:4)

 

 

*3:「キリストが律法を終わらせたので、信じるものはみな義と認められるのです」(ローマ10:4)「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」(ガラテヤ3:23-25)

 

 

*4:「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 」(マタイ 5:19)「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、『姦淫してはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。(ヤコブ2:10-11)