道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

同性愛、同性婚、聖書をどう読むか(3)

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なぜ、特に同性愛を問題にするのか?

 

さて、私が長々と同性愛を問題にして記事を書いている理由は何でしょうか。実は、このことが他の罪と比較して特に罪深いからではありません*1。神に対する罪はどれも全て重大なのですから…。また、同性愛の問題を取り上げるのが、単に「理解できない」「生理的に嫌だ」という理由であってもならないと思います。「理解できる」「生理的には別にOK」と思っている事柄でも、それが罪であるということも多々あるからです。それが罪であるか否かは、我々の感情によって規定されるわけでは絶対にありません

 

では、なぜでしょう?

 

罪が「愛」とされる時代

 

一つには、この同性愛というものがリベラルな市民運動、また、メディアや政治の力によって「愛の一つの形」と理解されつつあり、しかも、キリスト者たちがそれに追従しているという現実があるからです。そして、ポリティカル・コレクトネス*2の圧力によって、その流れに否を唱えるならば大変な非難にさらされるという時代がやって来ています。これらのものは、人の悪巧み、人を欺く悪賢い策略、教えの風であると私は信じます(エペソ4:4)。

 

www.logos-ministries.org


Modern Educayshun

 

 

結婚が「神抜き」に語られる時代

 

同性愛を容認し、同性婚を認めるという考え方は、この世の中だけではなく、残念ながらキリスト教会の中にも入ってきて久しいのです。もはや、結婚が神を抜きにして論じられ、「愛し合っているのだ」という一言でどんな在り方も正当化されてしまう風潮です。

 

www.christiantoday.co.jp

 

ヘブル人への手紙は「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。」(13:4)と教えています。この結婚とはどのようなものでしょうか。それは政府が定めた制度でしょうか。本人たちが結婚だと思えば結婚なのでしょうか。そうではありません。結婚の創造者は神であり、その結婚の原型は「キリストと教会」とにあります。

 

「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ5:31-32) 

 

神が制定された結婚は、私たち人間が自分たちの欲望や都合によって好き勝手に改変して良いものでは決してないのです。私がこの記事の中で、同性愛、同性婚を長々と取り上げている理由は、これらを推進する運動が、神が創造の初めから定められた「結婚」の神聖さに対して攻撃をしているからだとも言えます。

 

 

 

同性愛者の“牧師”たち

これまで記してきたような動きの中で、大きな役割を果たしているのは「自分が同性愛者である」とを公言している牧師、神学者でしょう。ゲイであることを最初に公言した牧師と言われているのが、ロバート・ウィリアムズですが、彼は、エピスコパル神学校において神学修士を取得し、1989年に按手を受けます。彼はその時点で既に、ジェームズ・スケリーという離婚経験のある二児の父と同性愛関係にあることを公言していました。

 

ウィリアムズは、「一夫一婦制は、不淫*3と同じくらい不自然だ。もしそうしてみたい人がいるなら、やってみればよいが、実際には人間は一夫一婦的ではない。この(一夫一婦という)理念を掲げ、それが我々の実践していることだと装い、実際にはそうではないというのは馬鹿げている。」「牧師としての私は、人々との交流の中で、一夫一婦的である人々はごく少数であることを知っている」などと述べています。ウィリアムズはやがて牧師を辞し、性についての研究をニューヨーク大学で行い、最終的にはエイズによって死去しています。

 

現在は、日本でもいわゆるLGBTであることを公言している“牧師”たちがいます(T_T)

 

www.okamura.co.jp

 

(T_T)

www.ch-fukuinkan.com

 

以下のリンク先に登場する人物は、日本基督教団の教職であったようですが、現在は“牧師”をしていないようです。“牧師”をしている時からゲイを公言し、「グノーシスセラピー」と称する“スピリチュアルヒーリング”を一時間18,000円で提供したり、開運グッズを販売したりしています。これはもはやキリスト教ではないでしょ…(T_T)actokyo.jp

 

また、日本で最も有名な“ゲイの牧師”は、以下のリンクの中で「ありのままで生きなさい」という考えを「キリストの教え」と語っています(T_T)

 

平良愛香(ゲイ)~すべての人が、その存在を認められる社会に【前編】~|LGBTインタビューメディアサイト【LGBTER】

 

この“牧師”が語るような「ありのままで」というメッセージは、確かに多くの人々の耳に心地良いかも知れません。しかし、主イエスは「ありのままで生きなさい」などとは仰っていません。確かに「罪人の友」とも呼ばれた主イエスは、私たちがどんな罪の中にいても、そのありのままの状態を心に留め、憐れみ、近づき、赦しを与えてくださるお方ですが、しかし、それは「罪を犯し続けて良い」という許可をお与えになるということではないし、罪が罪でなくなるという話ではないのです。

 

同性愛者の牧師を認めることにどんな問題があるのかは以下のブログ記事のシンプルな記述が参考になります。同性愛が罪であることについては既に述べてきた通りですが、聖書的な秩序を教え、信者の模範となるべき教会の牧師(監督、長老)が、その罪を罪としない、「ありのままでいい」と語る人物であることには大きな問題があるでしょう。

 

blogs.yahoo.co.jp

 

 

「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(第二テモテ4:3-4)

 

 

しておくべき心備え

 

不当に抑圧されている少数者が顧みられることは大切ですし、人が人種、肌や髪や目の色、言語、出自などによって差別されるべきではありません。しかし、「マイノリティに寄り添い、多様性を認めよう」という旗を巧妙に掲げながら、聖書に反する価値観が猛烈に勢いを増しています。神が神であること以上に“人権”が重んじられる時、それは「人という偶像」が礼拝されていることになります。

 

このような現代において、私たちのように「聖書は同性愛を罪である」という主張をする“マイノリティ”は、強い非難にさらされます。そのような意見を持つ人々は、偏狭な差別主義者であるとみなされるのです。この傾向は加速度的に強まっています。

 

以下のリンクは、レズビアンのカップルの結婚式用ケーキの注文を拒んで差別をしたとして有罪となったオレゴン州の夫妻についての記事です。このケーキ屋のオーナー夫妻は、慰謝料として約1600万円を支払うように命じられ、信仰に基づく信念を語ることもやめるように命じられました。

 

www.christiantoday.co.jp

 

 

教会の牧師が、同性婚の司式を断ったことによって訴えられるような時代がやってくるかもしれません。その時、 他の“牧師”たちが「同性婚を認めないあの牧師は、愛のない偏狭な差別主義者だ!」と非難することも遠からずこの日本で起こるかもしれません。そのような時代を迎えているのだという心備えをすべきでしょう。

 

3:1 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、4 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。…12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。13 しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(テモテへの手紙第二)

 

パウロは、キリストの現れを待ち望み、キリストが最終的にもたらされる御国を想いながら、この勧めを記しています。私たちも同じものを待ち望みながら、この困難な時代の中で主から委ねられた使命を忠実に果たしていきたいと心から願います。 

 

また、同性愛の中にあって葛藤している人々、あなたのために祈ります。あなたが私たちの教会に来て、ありのままを打ち明けてくれたなら、不慣れさゆえに少々戸惑いを見せるかも知れないけれど、あなたの存在を拒否したりはしません。でも、あなたが嫌な気持ちになったとしても、同性愛に基づく行為を容認はできないので、「間違っているんだよ」と伝えたいと思います。そして、あなたと共に聖書が何を教えているかを学びたいと思います。

 

また、何の疑問も感じずにその中を生きている人々のために祈っています。未熟な私たちですが、彼ら(彼女たち)をどのように大切に扱うべきか、彼ら(彼女たち)にどのように愛をもって真理を語るべきかを考え、学び続けていきたいと思ってます。主イエスならどうなさり、何を語られるか…それを考えながら。

 

まだまだ書ききれないのですが、ひとまずここまでで区切ります。

 

 

 

(以上)

 

 

学びをする上で以下の資料が役に立ちます。

 

元・ちいさないのちを守る会の水谷潔氏による論考

kiyoshimizutani.com

 

 


Rosaria Butterfield on Understanding and Loving Our Gay and Lesbian Friends

※元レズビアンの学者、講演家、クリスチャンのロザリア・バターフィールドさんのインタビュー(英語)。テーマは「ゲイやレズビアンの友人を理解し、愛を示すことについて」。

 

 

当事者の葛藤や正直な思いが綴られています。

sakura873.wordpress.com

 

付録の「同性愛擁護派の間でよく聞かれる主張への反論」は特に有用です。

男か女か―同性愛のカウンセリングに

男か女か―同性愛のカウンセリングに

 

 

執筆者は、主に「主流派」に属する人々だが、同性愛について擁護的な立場、容認することに懐疑的な立場、双方の主張を見ることができる。

キリスト教は同性愛を受け入れられるか

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*1:デューク大学のリチャード・ヘイズは、ローマ1章について次のように語る。「パウロが同性愛行為を選んでことさらに注意を喚起したのは、この行為が人間の堕落によって神の創造の秩序が歪曲されるありさまをとりわけ生々しく示している、と考えたからである。…同性愛行為は、創造主なる神の意志を拒絶する人間の内面にある霊的現実が、目に見える形で表に現れたものである。彼らの姿は、『神の真理を偽りに替え』た者たちの霊的状態を具現化したものといえる。…しかし、同性愛行為だけが特別に非難されるのはおかしい。人間の不正を示す行為としてここ(ローマ1:29-31)に挙げられている他の例に比べて、同性愛校だけが特に悪いわけではなく、妬みや陰口や親への反抗と原理上は同等の扱いである。」(『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』第一章より、ジェフリー・S・サイカー編, 森本あんり監訳, 日本基督教団出版局)

 

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*2:wikiペディアより:ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・障害者・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。

 

しかし、この ↑ ポリコレを機械的に取り入れ、人々に押し付ける社会になっていくことは愚かなことであり、自滅行為です。言葉は、関係や文脈の中で用いられます。それを無視して言葉狩りをすることは、この世の幼稚な教え(コロサイ2:8)によるものです。

 


ESL Students Learn New Gender Pronouns | We the Internet TV

 

*3:ふいん(英: Celibacy、羅: caelibatus) とは、自発的に独身でいること、または性的に禁欲すること、またはその両者であり、多くの場合宗教的な理由による。 これはしばしば宗教内における公的な立場や献身と関係する。…これが「不淫」という言葉(おそらく訳語)の意味であるが、これはまるで性そのものが「淫ら」であるかのように連想させる漢字である。残念ながらキリスト教の歴史においても、聖書の主張に反して「性=悪、汚れたもの」という主張が度々なされてきた。「アウグスティヌスとヒエロニムスによると、セックスは生殖のための「不幸な必要性」と見なされた。オリゲネスとヒエロニムスは、すべての性的な喜びを悪と考えた。」(『教会と同性愛』アラン・A・ブラッシュ著, ちなみにこの書物は同性愛擁護の立場で書かれている)など、多くの例がある。しかし、聖書は、すべて性的な喜びを聖書は、一対一の男女が正式に結婚をし、互いを与え合い、尊び合う関係の中でもたられる性の営みを祝福ととらえている。