道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

心を奪われ続けるべき働き(2)

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私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。 (第一テモテ4:13)

 

この箇所を原語で見てみると、「私がいくまで」の後、すぐに「専念しなさい」という命令形の動詞が出てきます。「私がいくまで…専念しなさい! これと、これと、これに…」。パウロは、このような書き方をもって「専念しなさい」という言葉を強調しています。「できればやっておいてね」といった軽い表現ではなく、これらのことに自分自身を捧げなさいといった意味の命令がなされています。

 

同じ第一テモテの4章のはじめに、実は、この「専念する*1」という言葉が出てきて、新改訳聖書*2では別な日本語に訳されています。

 

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。(第一テモテ4:1)

 

どの言葉が「専念する」と同じ言葉か分かりますか。それは「心を奪われ」と訳されている言葉です*3。ここでは、サタンとその手下である悪霊どもに由来する偽りの教えに心を奪われ、それに魅了され、それに夢中になって、本来の信仰から離れる人々が出てくるという警告がなされています。

 

ここでは「心奪われる」が悪い意味で使われていますが、同じ言葉が13節で、「専念する、専念しなさい」という積極的な意味で用いられています。「私が行くまで、今から挙げる幾つかの働きに専念しなさい。いや、それらに心を奪われていなさい!魅了され、夢中になりなさい!」非常に力強く、熱量を感じる表現です。

 

皆さんもこれまでの人生の中で、何かに心を奪われ、魅了され、夢中になったことがあったと思います。素晴らしい景色を見た時、また、芸術作品、音楽の演奏に触れたとき、そういったことを感じたことがあるかもしれません。特別に美味しい料理を食べた時かもしれません。今の伴侶と初めて会った時、ビビビッと響くものを感じ、心を奪われたかもしれません。

 

パウロはテモテに対して、動作の継続を表す現在形の命令法を用いて、「私が行くまで、これらの働きに専念し続けていなさい!」と語ります。言い換えるなら、「心を奪われ“続けて”いなさい!」「これらの働きに魅了され“続け”なさい!」「夢中になり“続け”なさい!」ということが語られているのです。

 

この御言葉から、教会を健全に活性化させようとする指導者たちが、一体何に専念し続け、どんな働きに心を奪われ続けるべきかを見ていきたいと思います。

 

1. 聖書の朗読と解説をすること

 

1tim4:13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。 

 

聖書の朗読に専念しなさい…。私たちの多くはこれを読んで、少し不思議に思うのではないでしょうか。現代の教会において、この朗読という働きはそんなに重要視されていないように思えるからです。私たちが熱心に専念すべき働きとして、それはあまりにも地味であるように思えます。

 

しかし、パウロは「聖書の朗読に心を奪われ続けなさい」と命じます。朗読とは、もちろん、声に出して読むことを意味します。印刷された聖書を一人ひとりが持っているといった状況は、ある意味でごく最近のことですから、当時は、長老などの代表者が巻物を開き、会衆全体のために声に出して朗読をしていたことでしょう。

 

私たちは、教会の中で「聖書朗読」の地位を回復する必要があります。たとえば、朗読を担当する司会者があまりにも練習不足で何度も読み間違えをするようなことがないようにしたいと思います。ボソボソと弱々しい声で読まれることも残念です。神の言葉は力強く、声高らかに読み上げられる必要があります。また、賛美をするときに起立する教会が多いと思いますが、聖書朗読を聴く時に会衆が起立することも素晴らしいことです。

 

ここで「朗読」と訳されている言葉が意味するのは、ただ声に出して読むことだけにとどまりません。この言葉は、もともと「再び知る」といった意味を持つ言葉で、ドナルド・ガスリーというイギリスの新約聖書学者は、この「朗読」という言葉の示す内容が「密室における事前の準備までを含む」であろうと指摘しています。

 

つまり、この言葉は、人々の前で読み上げる前になされる準備、様々な調べ物、学びをも含んでいるのです。なぜ朗読するために学びが必要なのでしょう。それは、この朗読というものが、読んだ箇所の解説を含んでいるからです。

 

あるギリシャ語辞典*4では、朗読と訳されているこの言葉がさらに「解説・講解」という内容をも含んでいることを説明しています。実際、ユダヤのシナゴグにおいても、初代の教会においても、朗読と解説がセットになっているのを私たちは様々なところから垣間見ることができます。

 

整理すると、この「朗読に専念しなさい」という教えは、準備、朗読、解説を含んでいます。心奪われるほど夢中になって事前の学びを行い、心を込めて御言葉を堂々と朗読し、その箇所が本当に理解されるようにしっかりと解き明かしを行いなさいということを意味しています。牧会者、説教者が、このことに心を奪われ、魅了され、夢中になって励み続けていることは、教会の健全な成長にとって不可欠なことです。このことを私たちは覚える必要があります。

 

礼拝の中で聖書が読み上げられても、その箇所が一体何を教えているのかが明瞭に解き明かされないままに、牧師が「私はこう思う」「私自身はこう感じる」といった話をし、次に「今週こういうことがあった」「あるクリスチャンがこういう体験をした」といった風に話が展開していく…。様々な興味深い例話が話されるかもしれないし、人々は感動するかもしれない…。牧師は人々の興味を引くような話や感動を誘うようなネタを日々探す…。

 

残念ながら、そのような一連の営みは、ここでパウロが教えていることとは違います。

 

聖書の箇所を“使って”、非常に前向きで、元気の出るお話がなされるかもしれない…。非常に“実践的”で“役に立つ”ような生き方のスキル、ノウハウが分かち合われるかも知れない…。

 

しかし、それらのものは、ここでパウロがムキになって、必死に、しつこく、テモテに教えようとしているミニストリーの在り方とは違うのです。


聖書の朗読…に専念しなさい(心を奪われ続けなさい)。

 

確信をもってその箇所を朗読し、そこから解き明かしをするために、牧師たちは書斎において御言葉そのものに心を奪われ、魅了され、夢中になって学びをし、備えをする必要があります。そのような牧師が確信をもって講壇に立ち、御言葉そのものが理解されるように解き明かしをするとき、会衆は平安と喜びと新鮮な感動をもってアーメンと言うことができます。

 

 私自身、このような面において、まだまだ不十分であることを思い、恐れつつ、今このことを書いています。あのパウロでさえ完璧ではありませんでしたが、生涯をかけて成熟を目指し、また、愛弟子のテモテがこの面においてもっともっと成熟した器になることを願ってこの手紙を書きました。

 

話は変わりますが、ネヘミヤ記には、イスラエルの民がバビロン捕囚から帰還し、エルサレムの城壁を再建する様子が記録されています。私はこのネヘミヤ記が非常に好きで、特にこのネヘミヤの8章を読む時、大きな感動を覚えずにはいられません。

 

8:1 民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。8:2 そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、8:3 水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。8:4 学者エズラは、このために作られた木の台の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。8:5 エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。8:6 エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。8:7 ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。8:8 彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。(ネヘミヤ書8:1-8)


この出来事を心の中に思い浮かべるとき、本当に胸が熱くなるのです。人々が自発的に集まり、「御言葉を読んでほしい」「聖書を教えてほしい」と熱心に願っている様子が見て取れます。

 

この場所が「水の門」の前だったというのも、とても印象的です。彼らは御言葉に渇いていました。御言葉によってご自身を現される神ご自身に渇いていました。そして、夜明けから真昼まで、おそらくぶっ続けで御言葉の朗読と解説が行われ、それを人々は「あぁ、そうか。そうだったんだ!」と理解したのです。

 

これと同じようなことが、私たち現代の教会でももっと起こるようにと願ってやみません。

 

なぜ、そんなにも聖書の朗読と解説が必要か…。なぜ、そのための熱心で誠実な準備が重要か…。それは、私たちの手にしているこの聖書が、他ならない神の言葉だからです。宗教改革者、カルヴァンはこう語りました。「我々は神ご自身の御言葉以外の他のどこにも神を求めず、その御言葉をもってでなければ神を考えず、その御言葉を通してでなければ神について何一つ語らない」と…。

 

心を奪われるほどに、聖書の朗読…に専念しなさい。

 

 

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*1:προσέχω プロセコー; 注目する、注意を払う、気をつける

*2:第三版、2017の両方で

*3:奪われという日本語は受け身形であるが、原文は受け身形ではない。しかし、ニュアンスをよく表している日本語訳であると思われる。

*4:Moulton and Milligan