これまで、霊的な建物の設計者、資材について学んできました。教会は神ご自身が設計されたものであり、その建築資材は「生ける石であるキリスト」という基礎とキリストに似た者とされていくキリスト者一人ひとり(生ける石たち)です。しばらく時間が空いてしまいましたが、今回は、霊的な家の「建築目的」について考えていきたいと思います。
神の喜びのための教会
教会の究極の目的は、人が幸せになるとか、成長するとか、癒やされるとか、ホッとするとか、楽になるとか、繁栄するとかいうことではありません。それらのものは素晴らしくありがたい“副産物”としてはあり得ますが、しかし、目的そのものでは決してありません。
教会の目的は、神ご自身の喜びにあり、神ご自身の栄光にあります。残念ながら、私たちはこれをいとも簡単に見失ってしまうのですが、何度でも立ち返る必要があります。
…霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。(2:5)
「神に喜ばれること」をどれほど重要視しているかは、教会の健康度の診断基準となります。たとえ、その教会が決して派手な働きをしているわけではない小さな群れであったとしても、もし、「神の喜びのため」という目的をしっかりと見据え、何が神に喜ばれることであるかを正しく理解して歩んでいるなら、その教会は非常に健康であると言えるでしょう。
祭司としての教会
ここに出てくる「聖なる祭司」とは、私たち教会のことを指しています。つまり、私たち教会は、先に見たように神殿でもあり、また、祭司でもあるのです。このことは、9節にも「あなたがたは…王である祭司」と書かれていることからも分かります。
旧約時代の祭司は、神に選ばれ、神に聖別され、特別な衣を着せられ、油を注がれて、特別な役割のために神様に用いられました。
今、私たちも同じように、神に選ばれ、十字架の血によって罪きよめられて聖別され、キリストという義の衣を着せられ、聖霊の油を注がれて、特別な役割のために用いられる存在となっています。
犠牲の動物ではなくイエス・キリストを通して
その役割とは、上で見たように「イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげる」ことです。ここで「霊の〜」と訳されている言葉は、「理にかなった」とか「御言葉に沿った」という意味の言葉です。
神に喜ばれる、御言葉にかなったいけにえ、捧げ物をささげる…。それは、旧約時代であるならば、犠牲の動物を正しい手順で捧げるということでした。それは絶対に守るべき義務であり、もし、背くならば厳しい刑罰が伴うものでもありました。
しかし、その旧約時代のルールは主イエスの十字架で終わり、新約聖書の時代における神に喜ばれる捧げ物は、義務ではなく、恵みに対する喜びと感謝の応答、自発的な反応となりました。
私たちは特定の司祭、牧師などを通して神に近づくのでもなく、自分自身の行いの正しさや何らかの目に見える供え物を通して神に近づくのでもなく、ただキリストを通して大胆に神に近づき、捧げものするのです。
教会が捧げるもの
具体的にどのようなもの(いけにえ、供え物)をお捧げするかについて、新約聖書は以下のようなことを教えています。
①自分自身の身体を捧げる(ローマ12:1-2)
②唇をもって賛美と礼拝を捧げる(ヘブル13:15)
③善い行いを捧げる(ヘブル13:16 )
④物やお金などの財/所有物/富を捧げる(マルコ12:40-44, 2コリ8-9章)
⑤人を捧げる(ローマ15:15-16)※誰かをキリストのもとへと案内すること
⑥他者への犠牲的愛を捧げる(ヨハネ13:33-34, 2ペテロ1:7)
⑦祈りを捧げる(エペソ6:18, ヤコブ5:16)
「捧げなければ裁かれる」とか「捧げないと教会の人々や牧師から白い目で見られる」とかいう理由ではなく、キリストを通して、キリストの恵みによって押し出されながら、これらのものをキリストの栄光のために、感謝しつつ、喜びつつ、「そうせずにはいられない」という思いをもって自発的に捧げる…。
これが健全に建て上げられた教会の姿であり、神の喜ばれる教会の姿です。果たして、今これを読んでくださっているあなたの教会は、このような姿をしているでしょうか。
意図的な教会形成の必要性
この箇所は私たちに、このような教会の姿へと向かって進んでいくことを命じています。「そういう教会があったら理想だけど、現実はねぇ…」と諦めるのでなく、大いに足りなさを覚えつつもこのような教会の姿を目指すのです。
私自身、いつもそのような思いをもって牧会をする者でありたいと思っています。言うまでもなく、完璧な教会などどこにもありませんが、聖書の教える教会の姿を少しでもよりよく理解し、それを実現したいと願っています。
人は放っておいても何かを礼拝し、何かに自分を捧げて生きるようになります。真の神に自分を捧げるように導かれないなら、人は別の何か、何らかの「偶像」に自分を捧げ続けて、一度しかない人生を終えてしまうことになります。
だから、教会の指導者たちは、人々を神への真の献身に招こうとし続けなければなりません。人々が人生を無駄にすることのないように、神の喜びのために生きるように意図的、意識的に導く必要があるのです。それは、神を喜ぶように導くということでもあります。
人々を人間的に操作したり、支配したりすることで熱心な活動をさせることはできるかもしれません。しかし、人々が指導者の顔色を見て頑張っても、恐れによって駆り立てられても、それは神の喜ばれる捧げ物ではありません。
指導者たちがなすべきことは、神の恵みの福音そのものを真っ直ぐに解き明かし、神ご自身の素晴らしさを徹底的に告げ知らせることです。そして、自分自身がそれを豊かに*1味わい、自発的に自分を捧げる歩みをしながら、「どうか、私にならう者となってください」(1コリント4:16)と語り続けることです。
「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」(1ペテロ1: 2)
次回は、最後に「霊の家の特殊工法」について考えてみましょう。
聖書信仰に基づく教会形成―西大寺キリスト教会の歩みを一例として (YOBEL新書 49)
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<参考>
*1:その豊かさは往々にして、我々の罪深さ、弱さの中で現される。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ロマ5:20)「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリ12:9)