教会の「当たり前」をやめる覚悟があるか?
友人に勧められて『学校の「当たり前」をやめた。』という本を読みました。副題は「生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革」です。
学校の「当たり前」をやめた。 ― 生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革 ―
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都内公立中学の校長が、これまでの学校の「当たり前」をどんどんひっくり返して学校改革を行ってきたというお話…。例えば、宿題、一クラスひとりの固定担任制、中間・期末などの定期テストを廃止するなど、常識に縛られた頭で考えると「えーっ!? ゲゲゲの鬼太郎のお化けの学校かぁ???」と思うような内容です。しかし、一つ一つの改革にはもちろん深い意味がありました。
目的は何か?
この校長が特に大切にしている考え方は「目的と手段を取り違えない」「上位目標は何か」ということです。シンプルなことですが、私たちは簡単にそこから逸れてしまいます。
「運動会って何のためにやっているの?」「修学旅行の目的は?」「宿題はいったい何のために出しているんだろう?」というふうに改めて問うてみると、学校は「目的は不明だけれどなぜかやり続けていること」で溢れていました。
本来は何かの目的のために始められたことであるはずなのに、いつの間にか、それを同じようにし続けることが目的となってしまっていたのです。
校長は生徒たちに、自ら学習して将来を切り拓くことのできる「自律」を身につけさせるべく、全学年の授業や行事の内容を改めていきます。最初はある程度トップダウンで、しかし、教職員たちも同じ目的を共有してやがて自ら提案や判断ができるようになっていく方向性で…。
改革の例をあげると、修学旅行は従来のものとは全く異なる「ツアー企画取材旅行」になりました。生徒たちは事前に旅行会社の社員から取材のポイントに関するレクチャー(出前授業)を受けます。そして、修学旅行本番では生徒たちが様々な取材をし、最終的には魅力的なツアー旅行の企画を立案して旅行会社に対してプレゼンを行うのです。
これによって、生徒たちはただ漫然と集団旅行に行くのではなく、考え、調べ、能動的に体験し、企画し、表現するといった一連のことを経験して成長することができます。親たちも、高い修学旅行費を払う甲斐があるというものです。
校長が掲げてきたゴールは、上に述べたような「自律」であり、また、「世の中まんざらでもない。大人って、けっこう素敵だ」と思ってもらうことでした。
この上位目標を常に念頭に置きながら、「こうあるべき」「こうするのが当たり前」という考え方を徹底的に疑って何百項目もの具体的な改革を推進してきたのです。
教会はどうか?
私も牧師として「教会本来の目的*1」というものを大切にし、それに基づいていろいろな改革を試みてきたつもりでした。でも、この校長先生の取り組みの姿勢、徹底ぶりを知って、改めて「ああ、まだまだ自分は“当たり前”に捕らわれているなぁ」と痛感させられました。
皆さんの教会の“当たり前”にはどんなものがあるでしょうか? 教会によって違うでしょうが、日本のいろいろな教会にあり得そうなものを順不同で列挙してみます。
- 毎週、日曜日の午前中に教会堂に集まって礼拝をすること
- 週報を印刷して配布すること
- 一つの教会に一人の牧師がいること
- 牧師が教会の敷地内(建物内)に住むこと
- 教会内で用いられている「教会用語」
- 教会の意思決定のシステム(役員会、長老会、総会 etc.)
- 教団、教派に所属(加盟)していること
- 牧師を志す人が神学校に行くこと
- 月定(約束、月約)献金を記名で捧げること
- 献金を現金で捧げること*2
- 様々な活動で忙しい
- 会議が多い
- 牧師が「先生」と呼ばれている
- 高齢者中心の集まりになっている
- 新しいことを始めようとすると反発が起こる
- 長時間話し合って、結局、「やめておきましょう」という結論になる
- 教会内の◯◯会、△△会などの区分
- 人前で祈るときの文言、言い回し
- 礼拝賛美のスタイル(オルガンで讃美歌、バンドでワーシップ etc.)
- 教会が建物を持っていること(持とうとすること)
- 伝道の方法(集会や広報宣伝の方法、そもそも集会で伝道するか否か)
- 伝道を行う人(主体)が誰であるか
- 奉仕をする人々が誰か(特定の人たちだけが奉仕するのが当たり前?)
- 礼拝の中で「主の祈り」や「使徒信条」などを唱和する(しない)
これらの「当たり前」の全てが必ずしも悪いわけではありません。もともとは目的や意味をもって行われていたことも多いでしょう。
しかし、もし私たちがそれらの習慣や活動が本来帯びていた目的を見失って、ただ前例の踏襲をし続けていくならば教会からは命が失われていきます。
その働きが、第一コリント9章にあるような「決勝点がどこかわからないような走り方」「空を打つような拳闘」になってしまうからです。
覚悟はあるか?
私たちが教会を測るのは自分自身の常識や教団教派の伝統という物差しでもなく、聖書の御言葉です。教会の在り方を素直に御言葉と照らし合わせる時、私たちは自分たちが握り締めてきた「当たり前」を捨て去るようにとのチャレンジを受けます。
私たちにはその覚悟があるでしょうか?
かの校長先生は、自分自身の改革こそが出発点であったことを語っています。私自身、大きく変えられる準備はできているだろうかと心を探られています。キリストにある調和とは異なる変な「和」と「空気」とかにビビって、「当たり前」の世界に埋没していないだろうか…。神の栄光、キリストの命が本当の意味で溢れ流れ出る教会を建て上げるため、自分自身が変わっていく覚悟があるだろうか…。
あなたはどうですか?
「目的思考」で学びが変わる?千代田区立麹町中学校長・工藤勇一の挑戦
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*1:米国カリフォルニア州のサドルバック教会、リック・ウォレン牧師によって提唱された“Purpose Driven Church”(目的主導の教会)は、大変よく知られている。これについては、ビジネス的な思考を教会に取り入れたものであるとして批判する向きもある。それについて安易に同意することもできないし、完全に否定することもできないというのが正直なところである。しかし、「教会は自身の本来の存在目的に焦点を合わせるべきである」という主張には心から同意するし、それを広く訴えた功績は大きいだろう。
*2:キャッシュレス時代の“献金”については、最近よく、仲間たちと話していましたが、こんな記事 ↓ がありました。