道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マタイ24章

弟子たちは神殿の建物に目をみはっていました。この神殿は、建築の天才であったヘロデ大王によって増改築された壮麗な建築物でした。しかし、イエス様はこう語られました。


「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(24:2)

 このお言葉通り、その時から約40年経ってエルサレムは陥落し、神殿はティトス帝率いるローマによって完全に破壊されます。神殿の装飾に用いられた金をすべて取り出すため、兵士たちは神殿の石をすべて崩したということです。


さて、この後、イエス様はオリーブ山での説教を始められます。

 

イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(23:3)

 

 

弟子たちの質問によく注目してください。彼らは何を聞いているのでしょうか。「そのようなこと」とは、文脈から見て神殿の崩壊を指しているますね。また、「あなたが来られる時」とは、イエス様がメシアとして王座に着く時のことでしょう。さらに「世の終わり」というのはちょっと分かりにくいかも知れませんが、ギリシヤ語では、世代・時代などを意味する「アイオーン(の終わり)」という表現が用いられています。


いずれにせよ、どうも弟子たちは「複数のことがまとめて一気に起こる」という前提でこの質問をしているようです。

 

それに対してまずイエス様は、人(特に偽キリスト)に惑わされないよう気をつけること、また、前兆で“ない”ものを見て慌ててしまわないようにと教えておられます(24:4-6)。

 

その後、イエス様は「産みの苦しみの初め」の時代について(24:7-8)、7年の患難時代について(24:9-26)、再臨について(24:27-31)、時を見分けることについて(24:32-35)、いつ起こるかか分からないこと<携挙>について(24:36-25:30)…次々に小テーマを展開しながらメッセージを続けられます。どうも弟子たちが「一気にやって来る」と思っていた事柄は、何度かに分けてやって来るようです。

 

いずれにせよ、このオリーブ山での説教の大テーマは「終末論」です。みなさんはどのような終末論を持っておられるでしょうか。終末論には、死んだらどうなるかという「個人的な終末論」と、この世界は今後どのように進み、どのような結末を迎えるのかという「世界的な終末論」があります。

 

私たちは、人に惑わされることないように、聖書が教えている将来像をしっかりと見据え、それによって揺らぐことのない希望を抱いて歩んでいきたいと思います。

 

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(1テサロニケ4:16-18)

 

こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。(ヘブル12:28)