道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

「自分自身に注意を払いなさい」


長めの研修休暇をいただいて、特別な時間を過ごすことができました。教会の皆さんの祈り、具体的な助け、配慮を豊かに感謝しています。この期間には、楽しみ・リフレッシュの要素も多くありましたし、普段できない集中的な学びの要素もありました。また、立ち止まることによって、ふりかえと現状認識、また、将来についても考えることができました。感謝です!

 

フィリップ・クラウス・ジュニア牧師は「牧師たちよ、自分自身によく注意を払いなさい(PASTOR, PAY CAREFUL ATTENTION TO YOURSELF)」と題した記事の中で、高齢になった彼の祖母を世話していた父親の話をします。

 

www.pastorscenter.org

 

愛ゆえに喜んで世話を引き受けながらも、しかし、徐々に負担が大きくなり、疲労が蓄積してくる…。祖母の食事、服薬、睡眠を見守るため、彼の父は自分をケアする時間をほとんど犠牲にすることになりました。フィリップ牧師は次のように語ります。

 

「牧師も同じような立場になることがよくあります。私たちは自分の召命の重さを認識し、信徒を心から愛しているので、自分の教会をきちんとケアすることに全力を注いでいます。しかし、教会に集う人々に細心の注意を払いながら、実は自分自身に注意を払うことを忘れているのです。」

 

注意を払うためには生活のペースを落とし、一旦立ち止まる必要があります。自己犠牲的な働き方が美徳とされる社会にあって、休むことに罪悪感を感じる人も少なくないでしょう。休みたくても現実にはそんな余裕がない、過酷な労働をしている信徒の皆さんに申し訳ないと感じる牧師も多いでしょう。
 
私自身もそのような考えとライフスタイルの中を歩んで来ました。特に、あの東日本大震災を経験してからは「休んでいる場合ではない」「私なんかよりも大変な思いをしている人が大勢いる」「今は緊急事態なのだから」という思いで、自分の限界を遥かに突っ走りました。

 

結果、心身に大きな不調を来たし、今もその影響が完全に払拭されたとはいえません。だからこそ私にとって、以前よりも「自分自身に注意を払う」ということは重要なテーマになりました。
 

「セルフケアはセルフィッシュ(自己中心)ではない」(ある先輩牧師の言葉)

 

ある方が、子育て中のお母さん向けの話の中で「子育てにおいて親が一番大事にすべきことはなんだと思いますか?」と尋ねました。その方の答えは「親が自分自身を大切にすることです」でした。

 

ちょっと驚きを覚えるかもしれません。これはもちろん、親が子育てを放棄して自分のことばかりを大事にするという話をしているのではなりません。

 

本当に良い子育てをしようと思ったら親自身が良い状態である必要があるし、良かれと思って無理な自己犠牲を続けているとかえって自分も子どもも不幸なことになるよ、ということを教えているのだと思います。

 

パウロは「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい」(使徒20:28)と語りました。別の箇所には「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい」(1テモテ4:16)との勧めもあります。これらのことは牧師自身のためになるだけではなく、教会の群れ全体のためになるのです。誰かをより愛し、よりよく仕えるためのセルフケアは、全くもってセルフィッシュではありません。

 

私たちが常に注意を払うべき3つの領域

 

フィリップ牧師は上に引用したパウロのこれらの勧めを「牧師の仕事に内在する危険性ゆえに、重要かつ時宜を得た注意喚起」であると指摘し、具体的な3つの領域についての注意を呼びかけます。

 

 1. 時間

 
第一に、過労のために家庭や休息の時間がおろそかになる危険性。第二に、怠慢、怠け心によって時間を無駄にする危険性。
 


2. 態度

 
説教への批判、親しい人々の離反などの痛みの中でどのような態度を選ぶのか。そこに罪があるなら神の赦しと憐れみを求め、主の慈しみと忍耐と憐れみが自分にも与えられるよう求め、労苦が決して無駄でないと信じることができるように求めて祈る態度が必要である。
 


3. 心と精神

 
「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」(ローマ12:2)、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く」(箴言4:23)と聖書は勧めている。人々の心を扱う仕事をしながら、自分自身の心について無防備であってはならない。自分の触れている娯楽、訪れるウェブサイトがどのように心に影響を与えるかなどにも真剣に注意を払う必要がある。
 

最後に、フィリップ牧師は以下のようにチャレンジと励ましを与えます。
 

「多くの人が自分の霊的ケアを求めてやって来ることは、重い責任です。多くの時間とエネルギーを他の人のケアに向けるために、牧師は意図的に自分自身の状態を見張る必要があります。疲弊し、怠惰に陥っている牧師に何の意味があるのでしょうか?自分の召命に対して不満を感じるようになり、辛辣な態度を取り続ける牧師の働きがどれほど有効でしょうか?もし、牧師が善いことに心を向けていないなら、どうして忠実にイエス・キリストの福音を宣べ伝え、牧会的に人々の世話をすることができるでしょうか?牧師たちよ、自分自身に注意を払うことを忘れないでください。」