道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マタイ25章後半

今日の箇所も、イエス様の語られる終末論が続きます。 

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。(25:31)

 

 これはイエス様の「再臨」を示している箇所です。終末論や再臨についての理解には、様々なバリエーションがあります。同じクリスチャンといっても、神様が「これからなさろうとしておられること」について大きく意見が異なるのです。なぜそんなにも違うのでしょうか。それは「聖書をどう読むか」という、そもそもの姿勢の違いに根があるように思います。

 

今の日本では憲法の「解釈変更」が問題になっていますが、聖書も「自由に解釈する」「勝手に解釈する」ならば、そこからどんな教えでも導き出すことができてしまいます。私たちは、聖書を誤りの無い神のことばとして信じ、聖霊の助けを受けながら、字義的、文法的、歴史的な解釈を誠実に行い続けていきたいと思います。*1


私はこの後、教会の携挙(空中再臨)、七年の患難時代、そして、イエス様が地上に来られ(地上再臨)、千年王国が始まるという流れで神のご計画が進んでいくことを信じています。この31節のみことばは、イエス様の地上再臨を指しています。

 

羊と山羊に分けられるのは、私たちクリスチャンのことではありません。この人々は、七年の患難時代を経て生き残っている異邦人のことです。ですから、どうぞお互いに「周りを見渡して、この人はきっと山羊じゃないか?私は羊だけど…」なんてことは止めてください(笑)。

 

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイ25:40)


王であるイエス様の兄弟たち(=最も小さい者たち)に対して取った態度が、分かれ目になっています。この「小さい者たち」とは誰のことでしょうか。これは、第一義的には、患難時代に最も激しい苦難を通るユダヤ人たち*2のことでしょう。彼らに対してどのような態度を取るかが、その時代における祝福と呪いの分岐点になります。

 

私たちはその時代(患難時代)に、地上にはいないでしょう。もうすでに死んでいるか、生きたまま携挙されているかのどちらかです。*3しかし、ここで語られている生き方の原理は、私たちにも適用することができます。

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3:23)

 

空腹の人に食べ物を与え、渇いている人に水を、旅人をもてなし、着物を持たない人に服を与え、病人を見舞い、囚人を訪ねる…。これらのことを主に対してするように行うなら、イエス様はそれをご自身に対する奉仕として受け取り、喜んでくださいます。

 

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*1:私たちは「正しい解釈は一つ」という原則を重んじます。

*2:「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。」(エレミヤ30:7)

*3:眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:13-17)