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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マタイ26章1-25節

いよいよ、イエス様の「受難」についての箇所が始まります。イエス様は、出エジプトの出来事の際にほふられた小羊のように*1血を流し、神の怒りと裁きが私たちを“過ぎ越し”ていくようにしてくださったのです。

 私たちは本来、出エジプト記に記されているあのエジプト人たちのように裁かれ、打たれても仕方のない存在です。エジプトのパロ(ファラオ、王)の頑な様子を読んで「ひどいな〜」と思うのですが、よく考えるとそれは私たち自身の姿です。また、イエス様を殺そうと相談するユダヤ人指導者たちの中にも、私たちは自分自身の姿を見いだすことが出来ます。


そんな中、本当に心癒されるエピソードが記されています。それは、香油を注いだひとりの女性の話ですが、まさにこのは読者にとっても「アロマテラピー」です。

 

さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。(26:6-7)

 

 

彼女の行動は確かに思慮深いものではなく、不器用で唐突だったかもしれません。弟子たちは「無駄だ!もったいない!」と憤慨しました。往々にして、心からイエス様を愛する人を非難するのは「自分の方が立派なクリスチャンだ」と自負している人々なのです。しかし、イエス様はこう言われました。


「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。…この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(26:10-13)


この出来事は、私たちに問いかけます。「あなたにとって、イエス様はどれほどの値打ちなのか?」と…。この女性からは、高価な香油をなんとも思わないほどにイエス様に対する愛と尊敬が溢れ出ています。彼女にとって、イエス様は他の誰とも何とも比べることのできない存在でした。彼女は、おそらくルカ10章に出て来る姉妹のマリヤです。*2 イエス様の足下に座り、イエス様の御声に耳を傾けることをいつも選んだマリヤは、何が最も尊いか、今何を最優先すべきかを見きわめる人へと成長していました。

一方の弟子たちからは「そんなのもったいない!!」ということばが出て来ています。この後、イスカリオテ・ユダは、イエス様を銀貨三十枚で売り飛ばします。これは、出エジプト記の21:32にあるように、牛が奴隷を突き殺してしまった際に払われる賠償金の金額です。せいぜい数万円相当でしょうか。なんという侮辱的な事でしょう。*3

 

あなたにとって、イエス様はどれぐらい価値あるお方でしょうか。これは自分自身に本気で問うべき問いです。滅ぶべき罪人である私たちを救うため自ら命を投げ出して血を流された救い主を、私たちは「すべてを捧げるに値するお方」として尊んでいるでしょうか。

 

この一人の“不器用な”女性のように、イエス様をただただ愛し、尊び、思わず自分の持っている物を大胆に捧げてしまう…そんな者になりたいと切に願います。私たちがそのように生きようとする時、イエス様は「私に対してりっぱなことをしてくれた」と喜んでくださるのです。

※写真は、カヤパの庭の跡地

 

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*1:出エジプト記12章参照

*2:イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。(ヨハネ12:1-3)

*3:この出来事は、以下の旧約聖書の預言の成就でもあった。「私は彼らに言った。『あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。』すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。主は私に仰せられた。『彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。』そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」(ゼカリヤ書11章12,13)「 私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」(詩篇41篇8)