道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一サムエル記16章

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神の人サムエルは、神がサウルを退けられたことをとても痛みに思い、悲しみました。

 

主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」(16:1)

 

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サムエルは「こんな話をサウル王が聞いたら命を奪われるのではないか」と恐れつつ、ベツレヘムに向かいます。サウル王は15章に書かれている出来事が起こった時、本来すぐに王位から退くべきでした。しかし、彼は王座に留まり、自分の地位を脅かす者たちに対して目を光らせていたことが推測されます。ベツレヘムの町の人々も、おそらく当時の緊迫した情勢を知っており、予告無しにサムエルが現われたので胸騒ぎがしたのでしょう。

 

しかし、サムエルは人々に心配しないように告げて、主が言われた通りに新しい王を探します。彼の前に、エッサイの息子たちが連れてこられました。

 

彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(16:6-7)


非常に有名なみことばです。ある人はこの箇所を読んで「自分は外見にコンプレックスがあったので慰められた」と言います。しかし、私たちは自分の内面を本当によく見て、よく知っているでしょうか。神ご自身が私たちの内面を見透かしていることを恐ろしいと思わないでしょうか。…もう少し先に進みましょう。


結局、サムエルは、エッサイの七人の息子を見ましたが、新しい王に該当する人物はイッサイ(!)いませんでした。そして、最後に八人目の末息子が連れてこられます。

 

エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」(16:12)


これは、言わずと知れたダビデその人です。ダビデも外見は美しかったのですが、しかし、決め手となったのは「心」でした

 

しかし、一体、その「心」とは何でしょうか。ダビデの心には少しの罪も無かったのでしょうか。そうではありません。皆さんがご存知のように、彼は後に不倫、殺人の罪を犯します。しかし、彼の心の中には、主なる神自身を慕い求め、信頼するという「信仰」がありました。これから見ていくダビデの生涯の中で、彼は幾度となく試練に遭い、失敗もしますが、しかし、この信仰がなくなってしまうことはないのです。これが決め手になりました。


この後、ダビデは主の霊が激しく注がれ、一方のサウルにはわざわいの霊が襲いかかります*1。サウル王は精神的に不安定になり、時々は錯乱状態に陥りました。そして、琴の名手であるダビデが呼ばれ、今でいう「ヒーリング・ミュージック」を奏でます*2。おそらくこれは神を称える賛美の音楽だったでしょう。私たちはその後の展開を知っており、何の気無しに読んでしまいますが、なんとも不思議な出会いです。一つ一つの出会いの背後に神様の緻密なご計画があります*3

 

神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼から離れた。(16:23)

 

ダビデの奏でた音楽も、一時的な慰めにしかなりませんでした。彼の抱えていた真の問題は、音楽療法によって解決されるものではありませんでした。食事、運動、カウンセリング*4、医療、レジャーも適切な形で用いられるなら、私たちの人生をサポートしてくれるものです。しかし、私たちが抱える根本的な問題を解決するには、神に向かって方向転換(悔い改め)をし、神を慕い求め、神を信頼することがどうしても必要です。

 

サウルはそれを拒み、ダビデはそのような信仰の生き方をしていきます。

 

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*1:「主からの、わざわいの霊」とあるが、これは悪霊である。全てを治めておられる主ご自身の許可がなければ、この悪霊たちも働くことはできない。「もはや神が立てられた王ではないサウルからー権勢と能力の源だけではなく、正しい心の源であるー主の霊が離れました。…神から遣わされた悪い霊は、神のさばきによって、まさにサウルに臨もうとする災いの使いでした。王はこれを見て、驚き、悶え、ほとんど正気を失うほどでしたが、悔い改めようとはしませんでした。」(A.イーダーシャイムの注解, 『サムエルとダビデの生涯』甲斐慎一郎著より)

*2:巷に出回っているヒーリングミュージックは、反聖書的なニューエイジ思想などを背景にしていることが多い。しかし、真の神を称える賛美の歌をはじめとする良質の音楽は神の素晴らしさを反映し、心を慰める効果がある。私たちは普段、どのような音に囲まれているだろうか。

*3:ただし、この16-18章の記述は、必ずしも時系列の記述ではないと思われる。

*4:カウンセリング等に関するクリスチャンの立ち位置についての参考ブログ記事。当ブログ筆者もこの参考記事とほぼ同様の見解を持っている。