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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一サムエル記28-29章

第一サムエル記

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ダビデは、ペリシテ人の都市国家ガテの王であるアキシュに身を寄せていました。しかし、ペリシテ人がいよいよ大軍を招集してイスラエルと戦おうとしているのです。そのことを聞いたダビデは「よろしゅうございます。このしもべが、どうするか、おわかりになるでしょう。」とアキシュに語って彼の護衛となりました。

 

この微妙な表現からダビデの葛藤が伺えます。サウルやヨナタンの率いいるイスラエルと戦うことなど、ダビデにできるのでしょうか。それは御心なのでしょうか。彼は「命を守るためには仕方がない」と自分に言い聞かせながらも、激しく心が痛んでいたのではないでしょうか。29章では、ダビデがいかにアキシュに忠実に仕え、それによっていかに高い評価を得ていたかが分かります。確かにそれはダビデの身につけてきた品性による部分もあるでしょうが、しかし、読みながら複雑な思いを禁じ得ません。

前章に引き続き「誰に頼るべきか?」「誰に属するべきか?」という問いが私たちにも迫ってきます。

 

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さて、一方のサウルは、ペリシテ人の陣営を見てひどく恐れ、なんと霊媒師に頼って助言を得ようとします。これはモーセを通して与えられた律法への重大な違反です。

 

あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ19:31)

 

私たち現代のクリスチャンは、モーセ律法によって法的拘束を受けません*1が、しかし、律法の底流にある神ご自身の大きな御心、原則を理解し、それを聖霊の助けによって自分自身に適用して歩むことが求められます。霊媒、口寄せ、占いに頼ること、あるいは特定の助言者やカウンセラー等に過度に依存することは避ける必要があります。


さて、サウルは霊媒師にサムエルを呼び出すよう求めます。ここには、神の人サムエルが現われて、サウルにいろいろと語ったかのように記述されています。この部分についてどう理解するかは意見の分かれるところです。大きくいうと、神様が特例的にこのような形でサムエルが現れることをお許しになったという理解が一つ。また、これは霊媒師の演技、もしくは、悪霊の偽装*2で、もっともらしいことを語っているがサムエル自身ではないという理解。いずれにせよ、基本的に聖書は死者との交流を厳しく禁じているのです。イザヤ書にはこうあります。

 

人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。(神の)おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。(イザヤ8:19-21)

 

私たちは、目に見えない霊的世界の理解において、特に死生観において、聖書的なものの見方を身につけていく必要があります。ある人々は「先祖の祟り(たたり)」を語ります。事故や病気になった人に近づいて、「この災いの原因は、あなたがご先祖様のお墓を粗末にしたからだ」などと言う人々もいます。そして、供養のため、お祓いのためなどと言ってお金を要求するケースも多々あるのです。

 

しかし、もし仮に、死者が生きている人々に影響を及ぼすことができたとして、どうして先祖が自分の子孫に災いをもたらすでしょうか。墓が草ボウボウの状態だったとしても(綺麗であることに越したことはありませんが)、それでも子孫には幸せになって欲しいと願うのではないでしょうか。ご先祖さんは、自分が忘れられたからといって悪さをし、自分の子孫を癌にしたり、骨折させたりするのでしょうか。

 

「先祖の祟り」という考え自体、実は先祖への冒涜であると思うのです。聖書に基づいて考えるなら、死者が生きている人々の人生に影響を与えたり、祟ったり、守ったりすることはできないのです。


少し前に流行した「千の風になって」という歌は日本人の心をくすぐるものでしたが、聖書の死生観とは全く相容れません。日本は仏教国と言われますが、実は本来の仏教からも離れてしまい、死生観においては非常に混乱した状態にあります。そして、それが多くの人々の不安の温床となり、偽りの宗教のつけ入る隙となってしまっているのです。『菊と刀』の著者であるルース・ベネディクトによると、どんな生き方をした人も死んだらみんな仏になることができると考える唯一の仏教国であるそうです。それは、日本人が正式な仏教の考えである「因果応報」を拒絶した証しでもあると言われています。

 

さらに、高いお金を払って亡くなった方に戒名をつける習慣が一般的ですが、これは故人を正式な仏教徒とするためのものだそうです。これは本来、生きている間に仏門に入った人々が授かる名前であり、死後に、しかも値段によってランクが異なる名前を付けるということは、宗教ビジネスと言われても仕方が無いのではないでしょうか。


お盆になると「地獄の釜の蓋」が開いて、そこにいるご先祖様たちが帰ってくるというのです。なんとなくロマンがあるといえばそうだし、日本に生まれ育った者たちはお盆の時期にそれぞれ家族や親戚との思い出があるでしょう。しかし、高い戒名を払って成仏したはずの先祖が「地獄」にいるだとか、いつも「お守りください」と手を合わせる対象であるご先祖様の霊が、「迎え火」を焚いてあげないと道に迷うだとか、それらの考えは残念ながら支離滅裂としか言いようがありません。

 

日本的なもの、伝統的な風習、すべてに反対するのでは決してありません。しかし、それら一つ一つに込められている意味を理解し、引くべき線はしっかりと引くことをしたいと思います。具体的には特に、神ご自身以外の存在を礼拝したり、頼ったりする行為には携わらないことが大切です。


霊媒師に頼ったサウルが得たものは恐れであり、このことによって彼はかえって力を失ってしまったのです。この箇所ではダビデも、サウルも、頼るべきではないものに頼ってしまっています。

 

主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。(詩篇115:11)

 

 

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*1:モーセ律法は、当時のユダヤ人に与えられたものである。主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)と語られた。パウロは「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ10:4)と語る。主イエスがモーセ律法(口伝律法、言い伝えではない)を完全に守り通し、一つの違反も無く十字架に架かられたことをもって、モーセ律法の法的拘束は終わった。しかし、律法は良いものであり、正しく用いられれば有益である。それは、神の聖さを教え、罪を示し、私たちの生き方の方向性を指し示す。パウロが第二テモテにおいて「教えと戒めと矯正と義の訓練」とに有益であると言っている「聖書」は、第一義的に旧約聖書を指していることは言うまでもない。

*2:「亡くなった◯◯さんが現われて□□□と語ってくれた」などは、悪霊の偽装と考えるのが良いだろう。確かに愛する人、尊敬する人が現われて何かを言ってくれたら、私たちは嬉しいと感じるだろう。しかし、人はこれらの“声”に強く影響され、依存したり、恐れたりするようになる。もっと言えば、その存在や声に支配されるようになるのである。そして、真の神と神ご自身のことばから離れることが同時に起こる。「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」(2コリント11:14-15)この箇所は、直接には偽使徒を指して言っているが、サタンと悪霊の働きの特徴が“偽装”であることを教えている。