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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第二サムエル6章

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神の臨在を中心に

 

さて、第二サムエル記には、ダビデによる王国の確立が記録されていますが、6章は「神の箱」にスポットライトが当たります。

 

神の箱とは「契約の箱」とも呼ばれ、モーセに与えられた十戒の石版などが納められているアカシヤ材で作られた箱です。神の箱は常に「神の臨在」を指し示しています。


臨在(peresence)とは、神ご自身がそこにおられるということです。創造主なる神はどこにでもおられるお方であり、それを「遍在」(へんざい)と言います。しかし、同時に神はある特定の場所や人々の間に「強く臨む」ことをなさいます。ご自身がそこにおられることを力強く現し、信仰者たちにそれをはっきりと実感させてくださるのです。

 

さて、ダビデはこの神の箱を、新しく王国の都として位置づけられたエルサレムに運び込もうとしています。それは、神の臨在を中心にリーダーシップを確立しようとしているとも言えるでしょう。


私たちも自分たちの心、家庭、仕事、学業、人間関係の真ん中に、神のご臨在を歓迎したいと思います。そして、「主よ、ここに臨んでください」と祈り求め、「主よ、あなたは既にここにおられます!」という宣言をしていきたいと思います。

 

 

 不敬の罪

 

こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押さえた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。(6:6-7)

 

ウザという人物が、ひっくり返りそうになった神の箱を手で押さえたゆえに「不敬の罪」のため、神に打たれて命を奪われます。これを読んだ私たちは「え?気の毒じゃない?」と思うかもしれませんが、しかし、これには理由があります。

 

神の箱は本来、棒を用いて人間が担ぐべきものでしたが、この時にはなぜか車に載せられています。そして、本来、手を触れることも決してしてしてはなりません。これらの事実から、この時代の人々がいかに律法について無知であったかが伺い知れます。


もし、神のことばに対して無知であるならば、私たちは「良かれ」と思って神を恐れない行動をとってしまう可能性が高まります。私たちの持つ「人間レベル」の感覚や常識と、偉大な創造主のお考えは往々にして大きく異なっているからです。

 

礼拝のあるべき姿

 

ダビデは、信仰によるリーダーとしてもモデル的人物でしたが、もう一つ「礼拝者」としても注目すべき模範を示しています。彼はまず、主を恐れました。ウザの事件もあり、「主の箱をお迎えして良いのだろうか」と、しばらくの間、自己吟味をするのです。私たちも、すべてをご存知であり、義であり聖である主を恐れ、「本当にあなたを礼拝させていただいて良いのでしょうか」とへりくだる者でありたいと思います。主は、そのような者を喜び、ご自身の臨在の中に招いてくださいます。

 

主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。(6:13)

 

さあ、仕切り直しです。この時には、律法に則って神の箱が棒でかつがれています。これは重要なことです。

 

礼拝というものを考える時、ある人々は自分の音楽的好みにこだわります。現代的で斬新なものが良いという人がいる一方、伝統的であるべきだという人々がいます。どんな楽器を用いるか、子どもと一緒に礼拝すべきか否か、プロジェクターを使うか否か、礼拝の参加人数、牧師の話術などなど、こだわるポイントは人によって様々です。しかし、私たちは何よりも聖書にこだわる必要があるのです。礼拝は何よりも聖書の原則に沿ったものである必要があります*1。また、正しいみことばの解き明かし無しに、正しい礼拝はあり得ません。Back to the Bible!!


そして、六歩進む度にいけにえを捧げるという行動は、礼拝のために手間ひまをかけ、犠牲を払うということを意味しています。説教者や賛美チームが礼拝準備のために多くの時間と労力を費やしていることは、実は礼拝“準備”という以上に「礼拝そのもの」です。また、献金も礼拝の参加費などではなく、神への礼拝そのものなのです。私たちは余り物を神様に差し出すのではなく、価値のある尊いものを捧げ物として御前に差し出すのです。

 

ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。(6:14)

 

ダビデは、力の限り礼拝を捧げています。手加減無しにベストを尽くす礼拝です。しかも、彼は王である立場もかえり見ず、大胆に踊ります。彼の心は「人から見てどうだろう?」といったことよりも、神ご自身に向いていました。礼拝を淡々と“こなす”のではなく、無邪気に、自由に、喜びと感動を真っすぐに表現したのです。感情的であれば良いということではありませんが、主は情熱的な礼拝を喜ばれます。残念ながら妻のミカルはその姿をさげすみました。


また、ダビデは王であるのに、本来は大祭司が着るはずのエポデを身にまとっています。これは非常に例外的なことですが、聖書はこのことについて非難をしていません。この出来事は、やがてダビデの子(子孫)としてお生まれになるメシヤが果たされる役割と、そのメシヤを信じる者たちが受け継ぐ役割を指し示しています。その役割とは「王である祭司」というものです。それは、地上で影響力を持つことと、天におられる神と深い交わりを持つこととの「両立」とも言えるでしょう。

 

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2:9)


まだまだこの箇所から礼拝のモデル的在り方を見いだすことができます。ぜひ、注意深く読んで発見してみてください。

 


HEBREW - How Great is our God / Gadol Elohai by ...

*1:たとえば、礼拝と人間関係に関する原則(マタイ5:22-23)、賛美する口で悪口を言うことについて(ヤコブ3:9-12参照)などは、多くの場合に、見過ごされているのではないだろうか。