道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一列王19章

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限界に直面するエリヤ

アハブ王はイゼベル王妃に一部始終を告げ口をします。イゼベルは激怒してエリヤに使いを出し、殺害予告をします。イゼベルの脅しを聞いて、あの勇敢だったエリヤは急に恐れに捕らわれて逃亡してしまいます。しかも、彼がもといた「イズレエル」から「ベエルシェバ」というところまで、直線距離で約150kmの道のりです。 

 

偉大なエリヤも、私たちも同じような生身の人間です。この恐れの大きな原因として挙げられるのは「疲れ」というものです。彼は長い間、少なくともこの3年以上もの間、この悪王夫妻と対決していました。一個人が国家の最高権力者と戦うのですから、とてつもないプレッシャーです。

 

その日は朝から850人の呪い師たちと山の上で一日中対決し、今度は山を下りて兵士たちと共にこの呪い師たちを剣にかけて滅ぼし、その後、もう一度山の上に上り、祈って三年半ぶりの雨を降らせ、さらにその後、かなり長い距離を走って、しかも、アハブ王の乗った馬車よりも早くイズレエルまでやって来た…。確かにその日一日、彼は力に満たされていました。しかし、肉体にも脳にも限界があります。彼は心も身体も疲れ、恐れに捉えられたのです。

 

疲労困憊すると人は過敏になります。あの勇敢なエリヤがイゼベルの言葉に震え上がりました。これまでは使命のために命を投げ出す覚悟をしていたのに、ひとたび恐れに支配されると自分自身の身の安全についてしか考えられなります。疲れて木陰で座り込み、今までは死にたくないと思っていたのに「もう死にたいです」と言ったり…。

 

このように人は弱り果てると、一貫性がなくなって混乱してしまいます。また、彼は「私は先祖たちにまさっていませんから」とつぶやいていますが、彼は偉大な信仰の父アブラハムやモーセやダビデを思い浮かべて自分と比較し、自分はダメだと思ったのかもしれません。少し後の箇所には、エリヤが神様に対してつぶやいた言葉が記されています。

 

…「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」(19:10)

 

エリヤは「主に熱心に仕えました」と過去形で語っています。もう自分の働き、自分の人生は終わってしまった。熱心に仕えたのは過去のことだ…。未来のことなんて考えられない。完全に後ろ向きで、自責の念に縛られています。また、エリヤは孤独感を覚えています。このように強いストレスに長期間さらされたり、過度に疲れてしまうことによって、私たち人間は恐れに捉えられ、過敏になったり、混乱したり、比較したり、後ろ向きになったり、自分を責めたり、孤独になったりしてしまいます。私たちは自分がそのような弱さと限界を抱えた存在であることを認める必要があります。

 

主のケアを受けるエリヤ


主なる神様は、あっという間にひどい状態になってしまったエリヤを見捨てません。詩編には「人とは何者なのでしょう。神様が心を留めてくださるとは…」と書かれていますが、私たちもエリヤも本来は何者でもない存在、取るに足らない者なのに、神様は私たちをお忘れにならないのです。

 

彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。 1kgs 19: 8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。(19:5-7)

 

ここを見ると、疲れ果て弱り果てたエリヤに対して、主が睡眠を与え、食事を与え、また、運動を与えてくださったことが分かります。これを繰り返しながら、エリヤは神の山ホレブに向かって旅をしました。主は、恐れて弱り果てているエリヤに対して「何だお前は!情けない!」とは言いませんでした。

 

5節には「御使いが彼にさわり」とあり、7節には「主の御使いが…彼にさわり」とありますが、旧約聖書において「主の御使い」は、この地上に肉体を持って来られる前の主イエス様を指していることが多いのです。私たちの主は、混乱と落胆の中にいる私たちに近づき、触れてくださるお方です。

 

みことばを受け取るエリヤ

 

神は様々な形で私たちをケアしてくださいますが、最終的には、神の「みことば」こそがエリヤを回復へと導きます。私たちの恐れが、全て肉体の疲れや脳の分泌物質から来るものかというと決してそうではありません。私たちの罪、歪み、愚かさ、不信仰というものが私たちを恐れさせ、私たちを動けなくするのです。

 

だからこそ、健やかになって恐れに打ち勝つためには、みことばによって目が開かれ、考えが変えられ、生き方の方向性が変えられる必要があります。詩編にも「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」(詩編107:20)とある通りです。主は砂漠の中のベエルシェバではなく、モーセが神様と出会ったあのホレブ山へとエリヤを導かれました。

 

彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられた。(19:9)

 

みことばは、私たちに対して「お前はいったいここで何をしているんだ?」と問いかけます。アダムとエバが罪を犯した時も、神様はエデンの園で「あなたはどこにいるのか?」と問いかけました。それに対してエリヤは不平のような、愚痴のような返答をしますが、主はエリヤがどのような反応をしても、それでも繰り返し仰せになります。

 

主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。(19:11-12)

 

これは非常に印象的な場面です。エリヤが洞穴から出ようとすると突風が吹き、地震が起こり、火(雷でしょうか)が起こったが、その中に主はおられなかったのです。私たちは超自然的な現象に心を引きつけられたり、また、神様があっという間に今の状況を解決してくれることを期待しがちです。しかし、そのような目に見える現象や出来事の中にいる以上に、神様は別な場所におられる。それは「細い声」の中なのです。

 

この細い声は「沈黙の音」(sound of silence)とも訳せる表現です。この細い声が具体的に何を語っていたのか誰にも分かりませんが、エリヤは「すぐに外套(コート)で顔を覆って外に出た」とあります。 エリヤは神の臨在に恐れおののきつつ、しかし、外に出て主に向かって近づいたのです。恐れているけれども、逃げ出すのではなく、積極的に歩み寄ったということです。「細い声を聴く」とはこのような姿勢を意味します。ごく簡単に言うなら、神様に対する畏れと期待をもって「え?」と尋ねることです。そのように求めて外に出たエリヤに主は、彼の考えを大きく越えたみこころを示されます。

 

私たちも聖書を読んでいて「一体、何を言っているんだろうか?」「果たして私にとって何か意味があるんだろうか?」と思う時があるかもしれません。しかし、そのような中でも「え?」「え?」「主よ、あなたは何とおっしゃっているんですか?」と、畏れと期待をもって神様に近づくことをしたいと思います。

 

私たちは太い声しか聞かず、細い声に耳を閉ざしてしまうことがあります。「神を愛しましょう」「隣人を愛しましょう」という太い声を聞いて、それで分かった気になってそれ以上を求めないのです。しかし、それではあまりにも漠然としていて、結局、どのように生きていったら良いか分かりません。主は私たちに対して、もっと詳細に、もっと厳密に、もっと丁寧に、ご自分のお考えやご計画を示したいと思っておられるのです。

 

勇ましいエリヤ、情けないエリヤ、どちらもエリヤ自身です。それは私たち自身にも通じるところがあります。ヤコブの手紙で「同じような人」と言われている通りです。そのようなエリヤも私たちも、みことばを教えられ、祈りを重ね、様々な経験を与えられながら、変えられ、成長させられ、時には挫け、休み、また再び立ち上がる力を与えられ、用いられていくのです。

 

※ 写真は、カルメル山からの風景(2014年1月撮影)