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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一列王20章

第一列王記

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北イスラエルのあの悪王アハブにピンチが訪れます。強大な勢力をもったアラムの王ベン・ハダデ*1が圧力をかけてきたのです。
 

ベン・ハダデは「あなたの銀と金は私のもの。あなたの妻たちや子どもたちの最も美しい者も私のものだ。」( 3 節)と言ってきました。アハブはそれに対して「仰せのとおりです」(4節)と言うしかありませんでした。しかし、そうするとベン・ハラデはさらに大きな要求をしてきます。それは要するに、国全体、すべての町々と民を明け渡せという内容でした。

 
イスラエルの長老たちや民は、そのような無茶な要求を承諾しないようアハブ王に求めます。アハブ王は意を決し、要求を飲むことはできないとアラムの王に伝えますが、そもそも侵略しようとしている相手にはそんな言い分は通用しません。もはや戦いは避けられない状況です。
 

ちょうどそのころ、ひとりの預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう仰せられる。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」(20:13)

 

驚くべきことに、あの悪の限りを尽くしたアハブ王にも主からの語りかけがあるのです。アハブ王は意外にも素直にそれに応じ、みことばの指示通りに戦ったゆえに大勝利を得ました。
 

その後、あの預言者がイスラエルの王に近寄って来て言った。「さあ、奮い立って、これからなすべきことをわきまえ知りなさい。来年の今ごろ、アラムの王があなたを攻めに上って来るから。」(20:22)

 
アラム軍は、イスラルの神は「山の神」(23節)であると考え、低地であれば自分たちの軍勢が勝てると主張しました。現代においても、多くの人々が「神々の分業制」を信じています。「縁結びの神」「受験の神」「お産の神」などなど…。しかし、ある分野が得意で別の分野は苦手…というような存在は真の神ではありません。
 
最初の戦いで「富」を奪おうとしたアラム軍ですが、今度は「主」に対する挑戦をしてきています。主は黙っておられません。「神の人」を通じてアハブ王に語られます。
 

ときに、ひとりの神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう仰せられる。『アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう。』」(20:28)

 

アハブは主のことばの通り、アラムの大軍を打ち破りました。アラムの王ベン・ハダデは地下シェルターに逃げ込み、家来たちは哀れな格好をしてイスラエルに赦しを請います。そこでアハブ王はベン・ハダデに温情を示し、彼の命を助けてやるのです。
 
これは人間的に見れば「良いこと」のようですが、主なる神の目に適ったことではありませんでした。主の御心は、ベン・ハダデを「聖絶」することでした(42節)。それは私たちの感覚からは残酷に思えるかもしれませんが、しかし、私たちの感覚や常識は究極の物差しではありません。主が「主」であられ、私たちは「従」であることを覚えなければなりません。聖書は「人間中心主義(ヒューマニズム)」の本ではありません。むしろ、あくまで神が中心であられることを教えてくれるのです。アハブは主の偉大な力を目の当たりにしながらも、「主であることを知る」ことはありませんでした。神は預言者たちを用いて、アハブ王にそのことを指摘されます。
 

イスラエルの王は不きげんになり、激しく怒って、自分の家に戻って行き、サマリヤに着いた。(20:43)

 

この箇所から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。一つは、イスラエルに対する主の愛です。「なんとかして立ち返らせたい」という主の切なる想いが伝わってきます。もう一つは、みことばの普遍性です。仮に信仰者でなくとも、みことばに従うならばそれにふさわしい報いがあります。アハブもある程度はみことばに従って、ある程度は用いられたのです。逆に信仰者であっても、みことばに背くなら相応の報いを刈り取らなければなりません。ダビデの生涯にもそのことが見られます。
 
この原理は、今もこの地上において有効です。国家、政治、経済活動、倫理、夫婦関係、子育て、コミュニケーション、リーダーシップなどなどすべての領域において、神の定められた真理の法則に従うか従わないかが結果に大きな影響を及ぼします
 
ただし、究極的な「報い」「刈り取り」は、私たちがみことばの指示の一つ一つに従うかどうかではなく、イエス・キリストを救い主として信じ、主と告白するかどうかにかかっています。なぜなら、この救い主が私たちの罪の究極的な報いを十字架上で身代わりに受け、私たちにはなかったはずの義の栄冠を約束してくださっているからです。
 
恵みによって信仰へと導かれている者たちは、「あなたはみことばに背いている」という正しい指摘を受けた際にアハブのような態度をとるのではなく、主の前に悔い改めるよう導かれるでしょう。そして、同じ恵みによって(時間はかかるかもしれませんが)みことばの指示に従う者へと変えられていくのです。
 

 ※ 聖書的な人間観を踏まえ、「ヒューマニズム」というものをどう捉えたらよいかを教えてくれる良書。

人間とは何か―聖書の人間観

人間とは何か―聖書の人間観

 

 

 

*1:ベン・ハダデ二世