道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨハネ8章1-20節

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有名な「姦淫の女」の箇所です*1。律法学者、パリサイ人らが、姦淫の罪によって“現行犯逮捕”された一人の女性を連れてきます。
 

この時点でいろいろと疑問点があります。隠れて行うであろう姦淫の罪を、どうして現場で発見することができたのか…。なぜ、相手の男性は捕らえられていないのか…。なぜ、この人々はこんな早朝に主イエスの居場所を知っていたのか…。彼らは主イエスを罠にかけるため、この出来事を「起こした」とのです。6節に「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。」と書かれている通りです。

 
彼らは「モーセの律法によれば姦淫の罪は石打ちだ。あなたならどうする?」と主イエスに迫ります。きっとかなりの「ドヤ顔」をしていたことと思われます。姦淫の罪は、十戒に明示されており、これは見過ごしにできません。
 
夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。(申命記22:22)
 
しかし、主イエスが「律法に従って石打ちにせよ」と言うなら、彼らは鬼の首を取ったように大喜びするでしょう。ローマの支配下に置かれていた当時のユダヤ人には死刑を執行する権限がありませんでしたので、実際に石打ちが行われるとローマとの間で大きなトラブルになります。また、民衆は、主イエスがパリサイ人らとは違い、罪人に対して憐れみを示しておられることに感銘を受けていました。石打ちを命じれば、その民衆からの“支持率”が大いに下がります。
 
では逆に「石打ちにするな!」と言った場合はどうでしょう。それは「モーセの律法を無視せよ!」と言ったに等しいので、これも訴えの口実になるわけです。どちらにしても絶体絶命…。
 
…イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。(8:6b)
 
何を書いておられたのか興味がありますが、それは残念ながらわかりません。しかし、原文では「指」ということばが強調されており、旧約聖書には「神の指」ということばが出てきます。それは、十戒を石の板に書き記した「神の指」であり(出エジプト31:18)、バビロニヤの王に対して裁きを宣告した「神の指」です(ダニエル5章)。
 
姦淫の女を目の前にして地面に何かを書いているお方は、この「神の指」の持ち主ご自身でした。律法学者は、律法の著者である神を無視し、その文字を振りかざしていました。しかし、彼らが敵対していた主は、律法の著者ご自身であられ、最終権威であるお方なのです。私たちは、著者である神を無視してみことばを用いることをしてはならないのです。
 
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(8:7)
 
主イエスの基準ではかるなら、心の中で情欲を抱いただけで姦淫の罪を犯したことになります。誰が石を投げることができるでしょうか…。
 
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(8:9-11)
 
主は、ただ一人罪のないお方として、彼女を裁く正当な権威をお持ちでした。そして、彼女の犯した姦淫の罪は、他でもない神(主イエス)に対する罪であり、冒涜であり、不道徳でした。しかし、主は裁きを宣告することをなさいませんでした。この時点で彼女が「赦された」「救われた」と見るのは多少軽率かも知れませんが、少なくとも裁きが猶予されたのです。
 
すべての人間に対して、今この瞬間も、主は「裁き主」として相対することがお出来になるはずです。しかし、主はそれを猶予しておられ、真の悔い改めが起こることを、信じられないほど大きな忍耐をもって待ってくださっています。そして、ただその忍耐と憐れみによって、私たちは主イエスを信じる信仰へと導かれ、今や完全な赦しと救いにあずかったのです。
 
今日も私たちは「石打ちにされていない!」「それどころか永遠の赦し、神との交わり、命が与えられている!」「主イエスこそ世の光!」と、感謝と喜びと賛美の叫びをあげたいと思います。
 
 

*1:この箇所(括弧でくくられている)は、多くの写本においてヨハネ福音書の一部として伝えられてきたが、写本研究(本文批評)が進んだ結果、ほぼすべての学者の共通見解として「ヨハネ自身が記した福音書の原典にはなかった」と結論づけられている。したがって、我々はこの箇所を「霊感された誤りのない神のことば」の一部としては見ることをしない。しかし、その内容の素晴らしさ、詳細さ、史実的信頼性は高く、大いに学ぶことができる箇所である。ヨハネ自身、福音書の終わりにこう語っている。「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネ21:25)