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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨハネ11章

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エルサレム郊外のベタニヤ村にいるマリヤ、マルタ、ラザロの三人姉弟は、主イエスと懇意にしていました。しかし、ラザロが重い病になり、瀕死の状態になりました。主イエスは、歩いて数日かかる場所におられました。
 

神の栄光のため!

 

 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。(3-5)

 

私たちにとっては「どうしてこんな病気になってしまったのか」「なんでこんな苦しみがあるのか」という人間的な視点から抜け出すことが難しいのですが、主イエスは「神の栄光、神の子の栄光のため」と宣言されます。私たちも信仰をもって「この苦しみ、この困難を通しても、神の栄光が現れる!」と告白したいと思います。
 
 

アガペーの愛

 
使いの者は「あなたが愛しておられる者が病気です」と言いました。英語の聖書では「love」、日本語では「愛して」ですが、ギリシヤ語では「フィレオ(友情、友愛)」ということばが用いられています。
 
ところが、5節の「愛しておられた」のギリシヤ語は違います。英語と日本語では同じように「love」「愛して」が用いられているのですが、原語では「「アガパオー(絶対的な愛、犠牲的な愛、神の愛)」が用いられているのです。
 
マリヤもマルタも、主イエスがラザロとの間に友情があることを知っていました。しかし、それがどれほどの深い「愛」(アガペー)であるかを知らなかったのです。アガペーの愛はしばしば、私たちの予想や期待とは違った形で現れます。この箇所でも、主イエスはラザロの病気について知らされましたが「そのようなわけで…そのおられた所になお二日とどまられた。」(6)と記録されています。
 
私たちは「すぐに答えを欲しい」と思いますが、主は深い愛をもって「待ちなさい」と仰ることがあるのです。
 
 

死んでも生きる

 
二日経ってから主イエスは、エルサレムやベタニヤ村のあるユダヤ地方に向かわれました。それは命の危険の伴う旅でした。主イエスを捕らえて殺そうとする運動が強まっていたからです。
 
…イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。(17)

 

普通に考えれば絶望的な状況です。マルタは主を出迎えて「もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21)と言いました。しかし、主は「あなたの兄弟はよみがえります。」(23)とお答えになりました。マルタはそれを終末におけるよみがえりの話だと勘違いしますが、ラザロに関してはそうではありませんでした。
 
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(11:25-25)
 
主イエスを主なる神ご自身であり、救い主であると信じ、告白する者は、永遠のいのちを受けます。肉体が死んでも神と切り離されることがありませんし、肉体的に生きている時から神との交わりによって天的ないのちの前味をあじわうのです。
 
「信じますか」との問いかけにマルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(27)と答えます。なんと明確な信仰告白でしょうか。ハレルヤ!
 
墓のそばに行った主の様子は、私たちが福音書を読みながら思い浮かべている普段の様子とは違います。霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、涙を流されるのです。主はそれほどまでに「死」を憎み、「死」を敵対視なさっていました。死は神が創造されたものではありません。アダムの罪によって全人類に入り込みましたが、主イエスの十字架と復活によって滅ぼされるべき「敵」なのです*1
 
主の呼びかけに応えて、ラザロは息を吹き返して墓から出てきました。その後、彼はどうなったでしょうか。彼は今も2000歳を越えて、ベタニヤに住んでいま………せん。彼はやがて肉体的には死にました。彼がこの箇所で経験したのは、神の力による死からの蘇生であり、それ自体とんでもなく大きな奇跡なのですが、もはや決して死ぬことのない新しい体をいただく「復活」は、未だ主イエス以外の誰も経験していません(1コリント15:20)。しかし、このお方を信じる者は(ラザロも、私たちも)やがて同じ復活にあずかるのです。
 
私たちクリスチャンは、誰もが恐れ、誰もが目を背けたいと思っている「死」という問題についての完全な解決をいただいている存在です。私たちの生きている人生は、どうせ死んで終わり(生きても死ぬ)というものではなく、何があっても最終的には復活と命(死んでも生きる)という人生です。
 
復活の主に感謝、命の主に栄光あれ! ハレルヤ!
 
 

*1:1コリント15:20-26を見て欲しい。26節で死は「最後の敵」と呼ばれている。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」