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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

使徒の働き5章

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初代教会の気前の良さ

エルサレムで始まった初代教会において、信者には私有財産がありませんでした。ペンテコステの日、世界各地から巡礼に来ていたユダヤ人がペテロの説教を聞いてその場でクリスチャンになり、そのままエルサレムにとどまったため、互いの持てるものを出し合って生活をしたのです。

 

以前も書きましたが、使徒の働きに記されている初代教会の様子は、必ずしも私たちが全くその通りにコピーするべきものではありません。聖書が「命じていること」と「記録していること」は区別して読み、命令には従い、記録については(命令に基づいた生き方をする上での)参考にすべきです。

 

それを踏まえた上でも、やはりこのエルサレムの信者たちに見られる「気前の良さ」「与える心」「分かち合う心」は私たちにとっても素晴らしい模範です。実際、聖書は別な箇所で何度も「与えること」「捧げること」「分かち合うこと」を命じています。私たちは財産を売り払って共同生活をすることはしないでしょうが、しかし、神様の栄光のために大胆に与え、喜んで捧げることに励みたいと思います。

 

良い信者のふりをする罪

ところが、そこでアナニヤとサッピラという夫婦が事件を起こします。彼らは夫婦で共謀し、捧げ物を誤魔化したのです。金額の大小が問題になったのではなく、大胆に捧げるふりをしたという偽善が問われたのです。

 

そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(5:3-4)

 

自分の実態を誤魔化して「良い信者のふり」をすることは、クリスチャンをキリストに似た者へと変えてくださる聖霊に対する挑戦です。ここで「聖霊を欺く=神を欺く」と言われているように、聖霊は三位一体の神ご自身なのです。私たちがすべきことは良い信者を演じることではなく、罪多き自分を心から認め、罪を告白し、そんな自分たちにさえ大いなる恵みを注がれる神様をたたえ、感謝しながら、悔い改めの歩みにチャレンジし続けることです。

 

健全な教会の特質

使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。(4:33)

 

そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。(5:11)

 

大きな恵み」と「非常な恐れ」が、健全な教会の特徴であると言って良いでしょう。この二箇所にある「大きな」「非常な」は同じ「メガス」ということばが用いられています。「巨大な」という意味です。

 

健全な教会においては、人の能力や知恵よりも神の恵みの偉大さが強調されます。神の恵み深さ、憐れみ深さ、お優しさ、愛の豊かさ、罪人に対する忍耐と寛容がいつも強調されるのです。

 

しかし同時に、聖書がまっすぐに説かれている健全な教会には、神ご自身に対する健全な意味での畏怖の念、崇敬の念が見られるはずです。「どうせすべての罪は赦されるんだから…」という安易な態度はあり得ません。そのように言う人は、聖書が教えている「罪の赦し」「神の恵み」を本当に理解してはいないのです。

 

罪をお裁きになる義なる神を「非常に恐れる」からこそ、その神が酷い罪人を赦し、そのために御子をさえ惜しまずに与えてくださるという「恵みの巨大さ」が分かるのです。

 

教会と社会の関係

使徒たちの行う奇跡とみことばの教えによって、主を信じる者たちはますます増やされました。信じないまでもクリスチャンを尊敬する人々も多く現れました。しかし、敵対者はますます憎しみに燃えて使徒たちを逮捕します。

 

「真の聖霊の働きは、常に、一方に救いを、他方に激しい反対をもたらす。」(ウィリアム・マクドナルド)

 

ところが、主の使いが彼らを牢から解放するのです。御使いが「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」(20節)と語ったので、彼らはまた公衆の面前で教えを始めます。

 

大祭司が「エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい」(28節)と言ったように、初代教会の働きはもはや社会全体を揺るがすような存在になっていました。それに対して怒り狂ってクリスチャンを抹殺しようとする者たちもいましたが、高名な律法学者であったガマリエルのように冷静に様子を見る立場をとった者たちもいました。

 

教会が主の恵みと主への恐れに満ちあふれて力強い働きをする時に、ある人々は福音を聞いて救われ、ある人々は尊敬の念を抱き、ある人々は注意深く観察し、ある人々は激しく敵対します。教会は薬にも毒にもならない存在ではありません。もし、賛同者もおらず反対者もおらず、誰からも注目されていないとするならば、その教会は教会らしさを失っているのかも知れません。

 

迫害に遭っている使徒たちの姿には驚かされます。彼らは、御名のために迫害を受けることを「特権」「誇り」「喜び」と考えました。そして、勢いを弱めるどころか、ますます熱心に宣教に励んだのです。

 

そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。(5:41-42)

 

私たちは何を喜びとして歩んでいるでしょうか。ほめられること、快適であること、問題がないこと、願いが叶うこと、働きの成果があがること…これらのことももちろん嬉しいのですが、しかし、「主のために苦しむこと」を喜びとするという世界があるのです。

 

私自身まだまだ本当の意味ではわかっていない世界であるように思いますが、まず先に私のために苦しまれた主の恵みに導かれながら、主を恐れつつ、少しずつ「主のための苦しみ」を知っていく者でありたいと願います。

 

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5:10-12)