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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ローマ人への手紙14-15章前半

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繰り返しますが、1-8章は救いに関する教理、9-11章はイスラエルの救いについて、そして、12章以降はそれらの真理に基づいた「クリスチャン生活の実践」が主題です。12章は神への献身、13章は権威への従順を扱っています。そして、14章1節から15章13節は「弱い人への配慮」が扱われています。

 

あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。(ローマ14:1)

 

弱い人、強い人

 

さて、「信仰の弱い人」とはどんな人でしょうか。それを明らかにする前に、ローマの教会にあった具体的な問題を見てみましょう。ローマ教会をはじめ初代の教会には、「クリスチャンになったユダヤ人たちはユダヤ教の伝統を捨てるべきなのか否か」という葛藤がありました。

 

たとえば、モーセ律法には厳格な食物規定(コーシェル)があります。代表的なものとしては、豚肉、エビ、イカ、タコ、牛肉のステーキ(血を含むもの)などを食べることが禁じられています。美味しそうなものばかりですね…。また、一度偶像に捧げられた食物も汚れたとされました。このような食物規定は、「キリストが律法を終わらせられた」(ローマ10:4, ガラテヤ3:23-25参照)とある通り、本来、主イエスの十字架以降、モーセ律法は誰に対しても法的拘束力を持ちません。

 

しかし、ユダヤ人として長年生きて来た人物が、主イエスをメシヤとして信じるようになったからといって、すぐ簡単にそれらの伝統を捨てることができるでしょうか。クリスチャン(イエスをメシヤとして信じるユダヤ人をメシアニック・ジューと呼ぶ)になってからも食物規定やユダヤ教の祭り、暦を重視して生きている人々が少なからずいたのです。

 

彼らは、律法で禁じられている食物を食べると「汚れる」と感じましたし、律法の諸規定(あるいはそこから派生した様々な習慣、言い伝え)から外れた行動を取ると罪悪感を感じたのです。当時、ローマでは偶像に捧げられた肉などが普通に市場で売られていたと考えられています。

 

ところが、そういった規定に全く縛られない人々もいます。異邦人クリスチャンはもちろんですが、ユダヤ人の中にも「豚カツ、勇気出して食べてみたら美味しいじゃん!! 牛肉のステーキはやっぱりレアが旨いね!!」という人々がいたでしょう(笑)。偶像に捧げられた肉も、別に石や木で造られた偶像が食べ物に毒を入れるわけがないのですから、気にせずに食べた人がいたでしょう。

 

おおまかに分けると「福音は信じているけれど(ユダヤ的な)過去の習慣やこだわりからの束縛感が抜けない人々」「福音に基づく自由をエンジョイしている人々」がいたということになるでしょう。前者が「弱い人」で後者が「強い人」です。

 

パウロは、自由を謳歌する強い人に対して「弱い人に配慮してあげなさい。彼らの目の前でわざわざチャーシュー豚骨ラーメンを食べないようにね」とアドバイスをしているわけです。

 

福音に基づく寛容さ

 

パウロは、福音の真理については一切妥協しません。教会において、福音をねじ曲げようとする無律法主義、律法主義などがはびこらないように細心の注意を払い、それらのものとは厳しく対峙しました。しかし、パウロは「些細なこと」には目くじらを立てないという柔軟さ、寛容さを持っており、それをローマ教会の人々にも教えようとしたのです。

 

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。(14:10)

 

福音の根幹には関わりのない些細な問題で、軽々しく兄弟姉妹を裁いてはなりません。最終的な裁きはやがて神の御前でなされるのです。しかし、些細で“ない”問題について、教会はきちんと「訓戒」(15:14)し合うべきです。

 

これらの教えは、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。まず、福音の真理においては一切妥協してはならないということ。そして、その福音を土台として、互いに寛容になり、配慮をし合ったり譲り合ったりすること。これは教会が一致して力強く立て上げられていく上で非常に重要なことです。

 

ともすると、福音の真理については「それぞれがその人なりの信仰をもてばいいじゃん」とルーズに考え、逆に、自らの慣れ親しんだ習慣や好み、享受したい自由さなどの些細なことについては「絶対に譲れない!」と考えて、誰かを裁いてしまうのです。

 

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(14:15-17)

 

キリストにある自由とは、単に制限がないというだけでなく、愛によって敢えて自らを制限することにさえ喜びを感じるという自由です。このような成熟を目指して変えられ続けていきたいと思います。何度も繰り返しますが、そのような変化(聖化)の土台は福音そのものです。聖書の権威を疎かにし、福音を歪めてしまうところに真のクリスチャン生活はありません。

 

①信者でない人(神を認めない)

   ↓

②非常に弱い信者(信じたばかりで、神に従うという意識がまだ希薄)

   ↓

③弱い信者(神を恐れて従おうとするが律法主義的)

   ↓

④強い信者(律法主義から解放されて神に従っているが、弱い人への配慮が未熟)

   ↓

⑤非常に強い信者(律法主義から解放され、神に従い、弱い人へも配慮できる)

 

真に追い求めるべきもの

 

そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(14:19) 

 

私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。(15:2)

 

キリスト教界のあるリーダーから最近聞いた話を思い出します。それは、以前は非常に勢いをもって成長していたある教会が求心力を失って弱体化してしまった「原因」についての話でした。

 

その教会や牧師に、特に目立ったスキャンダルがあったわけではありません。異端の影響があったり、地域が過疎化したりということが起こったわけでもありません。衰退の主な理由は、教会内部で「お互いの考えや方法の“違い”」に目を向け過ぎたことにありました。その違いを擦り合わせることや、問題解決のために新たな規則を作ったりといった類のことにエネルギーを注ぎ過ぎてしまったことが災いしたのです。

 

私たちは、私たちが霊的に成長してキリストに似たものへと変えられることのためにエネルギーを注ぎたいと思います。そして、心を一つにして主をほめたたえる私たちを通して神の国が広がっていくことのために、与えられているエネルギーを目一杯注ぎたいと思います。

 

昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。(15:4-7)