道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ネヘミヤ記9章

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イスラエルの民の中で聖書の地位が回復しました。彼らは断食をし、悔い改めの表現として荒布を着け、土をかぶって集まりました。

 

彼らはその所に立ったままで、昼の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。(9:3)

 

彼らは3時間を御言葉の朗読と学び、3時間を祈りと礼拝に費やしました。現代のキリスト教会でいうなら、「聖会」「バイブル・カンファレンス」のようなことが行われたわけです。長ければ良いというものではありませんが、御言葉を喜び、賛美と祈りを喜び、それが「終わるのがもったいない」と思うような礼拝体験は幸いです。

 

 

賛美における言葉の重み

 

それからまた、レビ人のヨシュア、カデミエル、バニ、ハシャブネヤ、シェレベヤ、ホディヤ、シェバヌヤ、ペタヘヤは言った。「立ち上がって、とこしえからとこしえまでいますあなたがたの神、主をほめたたえよ。すべての祝福と賛美を越えるあなたの栄光の御名はほむべきかな。」(9:5)

 

私はこの箇所を読んで特に「すべての祝福と賛美を越える…」というフレーズに感動を覚えます。なぜなら、これに引き続いてイスラエルの民による非常に内容の濃い賛美が延々と捧げられるからです。

 

「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。(9:6)

 

この賛美の内容は、創造に関する賛美(6節)、アブラハムの召命に関する賛美(7-8節)、荒野での旅に関する賛美(15-23節)、カナン征服に関する賛美(24-25節)、士師時代に関する賛美(26-29節)、預言者から捕囚の時代に関する賛美(30-31節)などなど、多岐にわたり、非常に長い歴史をカバーする内容です。これほどに賛美をしてもし尽くせない、これらの賛美をも越えるような神の栄光の御名…なのです。

 

もしかすると、「神様、あなたは賛美してもし尽くせないお方です」といったフレーズは、クリスチャンたちもよく使う表現かもしれません。しかし、これを単に「便利な表現」として使って、その一言で済ませてしまうなら、この言葉の意味は非常に薄いものになります。極端なはなし、「どうせ賛美し尽くせないから、あまり本気で賛美しない」という態度になってしまうのです。

 

しかし、彼らは賛美してもし尽くせないのは重々承知しながら、それでも精一杯、ギリギリまでできる限りの賛美をしました。その時、「すべての祝福と賛美を越えるあなたの栄光の御名」という言葉は実際に重みを帯びてきます。

 

私たちも、神様がどれほど善いお方であるか、どれほど大きな恵みを与えてくださっているかを、考えられるだけ考え、書き出せるだけ書き出してみるなどしてみてはどうでしょうか。どんなに思い起こし、感謝し、賛美しても、し尽くせない神様の偉大さが、新たな実感をもって迫ってくるはずです。

 

また、日曜の礼拝で賛美を歌う際に、歌詞の意味をよくよく考えながら歌うだけでも何かが違ってくるはずです。私たちが、主なる神に捧げる言葉には「重み」「真実味」が必要ではないでしょうか。

 

 

苦難の中での祈り

 

神殿、城壁が再建されたとはいえ、イスラエル人の置かれている状況はまだまだ厳しいものでした。ダビデ、ソロモン王国時代の繁栄は見る影もありません。36節にあるように、彼らはまだ奴隷、よくても植民地の住民、という身分であり、預言者たちが告げた民族的救い、国土の回復は、この後、終末まで実現することがありません。

 

さて、そのような苦難、不自由、不本意な状況に置かれたとき、どのような受け止め方をすべきなのでしょうか。「なんでこんな目にあわなきゃいけないんだ!」「神様、あんたが神様なら助けてくれるべきじゃないか!」と考えるなら、それは非常に大きな思い違いをしていることになります。

 

私たちに降りかかって来たすべての事において、あなたは正しかったのです。あなたは誠実をもって行なわれたのに、私たちは悪を行なったのです。(9:33)

 

イスラエルの民は、ここで「神の正しさ」「神の誠実さ」を主張しています。そして、自分たちの悪を認め、降りかかってきたことは当然だったと捉えたのです。

 

災いにあった時、私たちはなかなかこのように受け止めることができません。しかし、神様の誠実さと自身の深い罪を思うなら、どんなに厳しい報いを受けても当然なのです。イスラエルの民はそのことを認めた上で、恐れとへりくだりをもって神の憐れみを求めます。

 

私たちも苦難の中で、まず神の正しさと自分の罪を認めたいと思います。そして、私たちを裁いて当然の神が、私たちの救いのために御子を遣わされた恵みを思い起こしたいと思います。この御子イエス様のとりなしゆえに、私たちは大胆に神の御前で助けを求めることが許されています。そして、神はこれらの祈りを親しく聞きあげ、最もふさわしい形で応えてくださいます。

 

…私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:6)