道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

教会再生の具体的プロセス3:リーダーが自己訓練に励む

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教会を再生に導こうとするリーダーは、まず自分自身を導く必要があります。この意識が希薄な状態で「この教会は〜〜が足りない」「もっとこうすべきだ」「あの信徒は◯◯◯という問題を持っている」と教会の“カイカク”に着手しても、それは目の中に梁を抱えたままで他者の目の塵を取り除こうとすることになってしまいます。 説得力も無いし、壁にぶち当たった時にそれを乗り越えるだけの力も無いので、その“カイカク”は頓挫することになるのです。

 

もちろん、完成された人物にならないと何もできないというなら、何も始めることができなくなってしまいますね…。

 

だから、私たち牧会者は生涯続く営みとして自己訓練に励みます(これは本来、全てのクリスチャンがなすべきことである)。この取り組みをやめた時、健全なリーダーシップと牧会は終わりを迎えることになります。「完成」されていなくて良い、でも、「変えられ続ける者」として歩みたいと思います。

 

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:11-14)

 

私はリーダーがこの↑ように語る時、「この人についていきたい」と思います。

 

逆に、「私はよく分かっている」「私は十分にできている」という態度のリーダーを見ると複雑な気持ちになります。みなさんもきっとそうだと思います。

 

牧会者の自己訓練(規律)について、講解説教者であり、優れた牧師、神学者でもあるR. ケント・ヒューズ(R. Kent Hughes)氏が「敬虔な牧会者の10の自己訓練(規律)」という良記事を書いています。

 

詳しくはリンク先を御覧いただきたいのですが、この10の項目を簡単に紹介し、最後にコメントをしたいと思います。

 

www.crossway.org

 

1. 純潔の訓練

 

数え切れないほどのクリスチャンリーダーが性的な罪によってその働きから脱落してしまっている。この分野において助けを与えてくれる友を見つける必要がある。

 

あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(2テモテ2:22)

 

2. 関係の訓練

 

人間関係を良いものにするために聖なる労苦をする必要がある。結婚しているならエペソ5:25-31を実行する必要があるし、父親であるならエペソ6:1-4を心に留める必要がある。これらのことは任意のものではなく、必須のものである。

 

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。…夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。…父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ5:25,29, 6:4)

 

夫婦のきずなを強めるために

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聖書が教える親と子のコミュニケーション

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3. 心の訓練

 

今日の教会において、多くの牧師はキリスト教的な考えから離れ、心を律する訓練をせず、様々なスキャンダルを産み出してしまっている。キリストの心を持つ必要がある(1コリント2:16)。使徒パウロはこのことをよく理解し、以下のように語っている。その秘訣はなんと言っても定期的に御言葉を読むことである。

 

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ4:8) 

 

 

4. ディボーションの訓練

 

御言葉を読むことは不可欠だが、さらに御言葉を自分自身の内に留めるために黙想をする必要がある。また、それに伴って祈りの生活を通して、自分の思いを主の思いに沿わせていく必要がある。多くの牧師が効果的なディボーション生活を送れずにいるのは、そのための計画を立ていないからである。

 

「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。 あなたのみおしえは 私の心のうちにあります。」(詩篇40:8)

 

 

5. 高潔(インテグリティ)の訓練

 

この世においても誠実が求められるが、クリスチャンリーダーたちにとっては尚更である。私たちの言動は意図的に真実なものでなければならない。約束を守ること、信念のために立ち上がる勇気を持っていることなどが重要である。

 

「主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか。 だれが あなたの聖なる山に住むのでしょうか。全き者として歩み 義を行い 心の中の真実を語る人。」(詩篇15:12-2)

 

 

6. 舌(言葉)の訓練

 

説教者の霊性を測る真のテストは、話術ではなく、話すことを制御する力である。舌を律するためには、継続的な祈りと決意が必要である。

 

「自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」(ヤコブ1:26)

 

7. 仕事の訓練

 

創世記の冒頭において、創造主は労働者のように見える。その神に似せられた被造物である我々は、働くことにおいても神の姿を反映する必要がある。牧会者にとっては弛まない学び、聖書の厳密な研究は大変に重要な仕事である。

 

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10:31) 

 

8. 忍耐の訓練

 

ヘブル12:1-3では、4つの命令を通して忍耐というものが示されている。第一に「絡みつく罪を捨てなさい」(12:1a)、第二に「与えられたレースを走り続けなさい」(12:1b)、第三に「信仰の創始者であり完成者であるイエスに注目し続けなさい」(12:2)、第四に「イエスがどのように生きられたかをよく考えなさい」(12:3)である。

 

9. 教会(の一員であること)の訓練

 

教会に行かければ自動的にクリスチャンでなくなるわけではないし、家に帰らなければ自動的に結婚関係がなくなるわけでもない。しかし、どちらの場合も“関係”は貧しいものにならざるを得ない。牧師は、地元の教会の一員としての献身と主体性を持つ必要があるし、それがなければ教会員たちにそう勧めることはできない。

 

10. 与える訓練 

 

マケドニアの信者たちが「まず自分自身を主に捧げた」(2コリント8:5)ように、神の恵みにあふれて心から捧げることを通して、私たちは物質主義の力から逃れることができる。自分の連なる教会、宣教活動、経済的に困窮する人々に対して「与える」ことを進んで行っているかどうか確認せよ。与えることによって、金銭の力に縛られることがなくなる。そして、霊的な祝福を刈り取ることができる。

 

「このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(使徒20:35)

 

宝の法則

宝の法則

 

 

最後にヒューズ氏は、これらのことが「神の恩寵によってのみ」可能であることを強調して記事を締めくくっている。

 

まとめ

ヒューズ氏の記事を受けて、少しコメントをし、まとめとしたいと思います。

 

これらの訓練(規律)は、どれも重要なものであると皆さんも思われるでしょう。しかし、記事を読んで自分自身の足りなさを突きつけられて戸惑う人も少なからずいるに違いありません。私自身もそうです。「そう簡単ではない」「大切なのは分かるが、現実は〜」と言い訳もしたくなります。

 

しかし、もし私たちが真に牧会者に召されているなら、そして、遣わされている教会を愛し、その教会が生き生きとした群れとして建て上げられていくことを願っているなら、自己訓練は不可欠です。そこには厳しさが伴う…。今いるところから一歩でも前進することを目指して歩み出したいと思います。

 

“自己”訓練と書きましたが、これは一人“だけ”で行う者ではありません。むしろ、私たちを見守り、励まし、時には厳しく戒めてくれるような存在が必要です。

 

「神ご自身が私の師(メンター)だ」と語る牧師もいますが、その態度は危いものです。

 

もし、それが可能なら、どうして聖書はこれほどまでに“互いに”にというライフスタイルを強調しているのでしょうか。使徒“たち”もチームで働きをなしました。聖書に見られる初代の教会のリーダー“たち”も複数で登場します。

 

他の人に助けや教えを請う謙虚さ、自分の情けない現実をオープンにする正直さは、リーダーの成長の鍵となり、様々な誘惑からの守りとなります。

 

私自身、日々、いろいろと足りなさを覚える者です。偉そうなことを「言う」のは簡単ですが、その通りに「生きる」ことの難しさを痛切に感じている毎日です。

 

だからこそ、神の恵みを切に求めずにはいられないし、その恵みの手段として「メンター」「友」の存在は欠かせないものであると思っています。

 

それで私は一ヶ月に一度、自分の心や家族関係などについて助言してくださる先輩に面談をお願いしています。

 

また、同じように月に一回程度、別な友人(海外在住)に実際的なリーダーシップについてのコーチングを受けています。

 

その他、神学的な助言者、祈り合える友と意識的に連絡を取り合い、一緒に時間を過ごす(もしくは電話、ビデオ通話)ことを自分に課しています。

 

あなたが牧会者であるなら、あなたにはあなたの自己訓練を助けてくれる存在がいるでしょうか? あなたが信徒であるなら、あなたの牧師には彼の自己訓練を助けてくれる存在がいるでしょうか? もし、いないなら、そのためにあなたは真剣に祈る必要がないでしょうか?

 

あなたが教会のリーダーを目指している人物なら、あなたには、あなたの現実を見極めてくれる、必要な指導を与えてくれる成熟した誰かがいるでしょうか? あなたは「成長や自己訓練」を真に求めているでしょうか? それとも、性急に「結果」「成果」を求めているでしょうか?

 

ぜひ考えてみていただけたらと思います。

 

※以下、言うまでもなく(度々言うけど笑)、全ての本の全ての内容に賛同する訳ではないが、示唆を得ることのできる本を参考図書として紹介しておく。

牧会入門

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心の刷新を求めて―キリストにある霊的形成の理解と実践

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