道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マタイ13章

13章に出て来る「天の御国のたとえ」ですが、これはいわゆる「天国」や「私たちの心」について教えているのではありません。

 

12章でイスラエル人が救い主を拒んで以来、今まで続いている時代(奥義としての御国≒キリスト教界)のことを教えています。


聖書を読む時に重要なのは「文脈」です。文脈を無視すると、たとえ話しも全く違った理解になってしまいます。すべてのたとえの解説は控えますが、皆さんが「え?そうだったの?」と思うであろう箇所について少し記しておきます


からし種のたとえは、田舎者ばかりの小さな集団として始まった「教会」が世界規模にまで発展することを教えています。そして、やがて鳥が宿るようになる…。どういう鳥を思い浮かべますか? スズメ、ウグイス、インコ?


鳥は、直前の文脈では「悪い者」を指していましたので、ここでも同じような意味で用いられていると考えるのが最も有力です。カワイイ鳥ではなさそうですね…。


おそらく、小さな種から始まって巨大に発展したキリスト教界の中に「異端」「偽教師」たちなどが宿るということを、イエス様は教えられたのでしょう。具体的には、エホバの証人、モルモン、統一教会などがそうでしょうし、また、聖書の権威を否定し、人間の理性に合う部分だけを受け入れる自由主義神学なども含まれると私は考えています。


これは、「ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。…不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。」(ユダの手紙4)と書かれているような人々です。


また、粉とパン種のたとえについてですが、「パン種」を良いものとして解説している注解者が少なからずいます。「神の国はパン種のようにどんどん膨らんで発展する」といった解釈です。しかし、旧新約聖書全体の中で、パン種はほぼ間違いなく 「悪いもの」の象徴です。


このたとえで、イエス様はキリスト教界の「みことばの教え」というパン(粉)の中に、偽りの教え(パン種)が混入することを教えていると、私は理解しています。たとえば、宗教改革前のカトリックは「救いには行い(儀式や寄付)が必要である」と主張していましたが、これはあきらかに聖書の真理に「混ぜ物」がなされていた実例です。


鳥やパン種に警戒しながら、変わらない「みことば」をまっすぐに信頼し、その種を蒔き続ける私たちでありたいと願います。