ルカ12章22-40節
心配するな!
マタイの福音書の山上の説教にも「衣食のことを心配するな」という内容がありました。主は、同じような内容を繰り返しお教えになっていたことでしょう。
ここでは、単なる「鳥」ではなく「烏」(カラス)が引き合いに出されています。烏は汚れた生き物と考えられていましたが、そのようなものでさえ神によって支えられ、養われています。また、ゆりの花と訳されている花も、アネモネであろうと言われていますが、非常に一般的な花です。そのような花さえ、いや、野の草さえも神は美しく装ってくださるのですから、「ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。」(37節)と主は言われます。
これは決して、ボーッと怠けていても必要なものが与えられるということではありません。聖書は、勤勉かつ誠実に働くことを強く勧めています。しかし、神への信頼を見失い、心配や焦りの中であくせくすることは、私たちの本来の生き方ではないのです。それは異邦人、つまり、聖書の神を知らない人々の生き方です。
何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。(12:31-32)
心配するなという教えは「何も考えるな!」ということではありません。聖書は「神の国の到来の希望を思いめぐらしなさい」と教えているのです。やがて主は再臨なさり、聖徒たちとともに千年王国を統治されます。そのことを待ち望み、主の約束を何よりも信頼し、希望をもって歩むことが勧められています。小さなことを心配し、恐れ惑いやすい私たちですが、主の約束で心を満たすことを求めていきましょう。
そのような生き方をする弟子集団、また、教会は「小さな群」です。この世の中の流行、主流、多数派とは違います。心細く感じることもあるでしょう。風当たりが強く、時には迫害に遭うこともあります。しかし、この小さな群には偉大な羊飼いがおられます。さらにこのお方は、わたしたちの「父」であられ、しぶしぶではなく “喜んで” 御国を与えてくださるお方です。
主は、御国を求める信仰の表現と訓練の方法として「施し」を教えられました。これは「贈り物をする」「捧げものをする」「与える」ということばです。御国を喜んで与えてくださる父を信頼し、そのお方の喜びのために富を用いることが教えられているのです。ある本にこう書かれていました。
「天に宝を“持って行く”ことはできませんが、天に宝を“送っておく”ことはできるのです。」
再臨への備え
主は続けて「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。」という表現で、再臨への備えを教えられます。ある人々は、この箇所が「空中再臨(携挙)」を指すのか、あるいは「地上再臨」を指すのかという議論をしていますが、たとえの要点は「再臨の備えをして生きること」です。
ある人々は、再臨の日時まで特定しようとしたり、どうせ再臨が近いのだから働くことも勉強することも無駄だといった極端な考え方をします。しかし、ある人々は、これだけ主が強調なさった再臨の約束をまったく軽んじて、まるでそれが空想話であるかのように生きています。どちらも誤った極端です。
私たちは、主人の帰りを待ちわび、それが今日かもしれないと思いながら支度をしているしもべのようでありたいと願います。はっきり言えることは、昨日よりも今日、今日よりも明日、私たちは一日一日、主の帰りの日に近づいているということです。
帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。(12:37)