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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ディボーション:マタイ26章26-46節

今日は「最後の晩餐」「ペテロ離反の予告」「ゲツセマネの園の祈り」の記録です。

 

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。…」(26:25-28)

 

ユダヤ人は「視聴覚教育」「体験型教育」を重んじる民族です。出エジプトの出来事を決して忘れないために、彼らは毎年決まった形で過越の食事をしました。

 最初の「聖餐式」は、過越の食事の中で行われました。それは、イエス様が「神の小羊」として屠られたことを指し示しています。私たちクリスチャンも、イエス様が十字架で裂かれた体と流された血を覚え、それを記念し、心に刻むためにこの聖餐式を行います。これはクリスチャンの視聴覚教育です。 

 

「…ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(26:29)

 

イエス様は、十字架に向かいながらも「父の御国で…新しく飲むその日」を心の内に見ておられました。やがて、イエス様が再臨され、この地上に御国(千年王国)がもたらされるとき、この言葉は実現します。しかし、弟子たちはまだそのことを理解しておらず、イエス様の復活の予告もうわのそらで聞いていたようです。ペテロは「決してつまずきません」と宣言しますが、しかし、イエス様と一緒に心を併せて一時間祈ることもできませんでした。

 

そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(38-39)


「イエス様は神ご自身なのだから、平気で勇ましく十字架に向かわれただろう」と考えてはなりません。

 

イエス様は「死ぬほど」に悲しまれ、「できますならば…過ぎ去らせてください」と繰り返し同じことばで祈られました。肉体的な死を恐れず、勇敢に殉教する人々なら他にもいます。しかし、イエス様ここで、歴史上に存在する他の誰一人も経験したことのないことを味わおうとしておられます。


罪が全くない聖い方であるのに、おぞましい罪人の頭のようにして裁かれ、汚物のように捨てられること…。父なる神と何の隔てもなくひとつである方が、父の怒りを受けて見捨てられ、父との愛の関係から断絶されること…*1 血の汗を流して祈った祈りに対する父の答えは「沈黙」でした。そして、いよいよ「時」がやって来ます。このことが、他でもない私たち一人一人に「神との和解」をもたらすためであったことを覚えましょう。

 

「…私(パウロ)たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:20-21)

 

このことを信じる者たちに対して、父なる神は決して沈黙なさいません。イエス様の持っておられた義、父なる神との愛の関係が、私たちに与えられているのです。目を覚まして、この関係を育み、深めつつ、私たちも「みこころのようになさってください」という心で歩みたいと思います。

※写真は、ゲツセマネの園にある樹齢数千年のオリーブの木。この木は、あの晩の出来事の“目撃者”かも知れません。

 

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*1:これは、肉体的死に対して「霊的死」とも言える。また、「関係的死」とも言えるであろう。一点の非もないのに、完全な愛の関係が断たれた。