ヨハネの黙示録3章
3章も、引き続き七つの教会への手紙です。5つ目に登場するサルデスの教会は「生きているとされているが、実は死んでいる」という状態でした。つまり、名目上、表面上、制度上は栄えていても、教会の命である信仰は死んでいる状態であったということでしょう。仮に、壮麗な教会建築があったとしても、仰々しい儀式を行っていたとしても、信仰のいのちが息絶えているなら、主はお喜びになりません。悔い改めが必要です。
目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。…あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。(3:2-3)
もし、ある教会が命を失った場合、一体、どのような解決策があるでしょうか。それは、神に向かって方向転換をし、御言葉を思い起こし、そこに堅く立って歩み直すことです。そして、自分だけではなく他の人々をも力づけ、悔い改めへと促すのです。
しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。(3:4-5)
信仰が死んだ状態になっていたサルデスの教会にも、キリストの義の衣に覆われて罪赦された真の信仰者、いのちの書に名が記された人々がいたようです。このような人々は、僅か数人であったかもしれませんが、彼らが教会全体の悔い改めの鍵となります。
6つ目は、フィラデルフィアの教会ですが、この教会に対しては一切叱責の言葉がありません。素晴らしい教会です。聖なる方、真実な方、すべての事柄についての主権をもっておられるお方がこう言われます。
わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(3:8)
フィラデルフィアの教会の前には、門が開かれています。この教会は、人の目から見て大きくも強くもありません。しかし、御言葉をその通りに実行し、キリストの御名を掲げて、開かれた門から外へと出ていく宣教の教会であると考えられます。
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時に*1は、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(3:10-11)
このような教会は、全世界に来ようとしている試練の時を通ることはありません。これは私たちが今後、このヨハネの黙示録を読み進める中で出てくる「患難時代」(6-18章)のことです。旧約聖書では「主の日」として預言されている、神の怒りが地上に注がれる時代です。この時には、どんな備えも役に立ちません。
しかし、神はその患難時代の前に教会を携挙なさる…。そのことを私は確信します。主イエスが「あなたの持っているもの(信仰)をしっかり持っていなさい」と仰る言葉に、私たちは真剣に耳を傾けたいと思います。これこそが最高の備えであり、危機管理です。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(1テサロニケ4:15-18)
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。(1テサロニケ5:2-4)
最後の7つ目は、ラオデキヤの教会です。
わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。(3:15-16)
冷たい(神を完全に否定する)か、熱い(真に神を愛する)かのどちらかではなく、ぬるい(表面的には神を受け入れるが、内実は神を否定している)という教会です。主イエスは、そのような教会を「吐き出そう」と語っておられます。そのような教会は、主ご自身を苦しめ、悲しませるのです。彼らは豊かで賢い者たちであるという自負を持っていましたが、主の目から見れば非常に惨めな状態でした。私たちも「主がどうご覧になっておられるか」という視点で教会を見る必要があります。
ラオデキヤのは自分に都合よく、優しい、何でも分かってくれるイエス様像を描いていたかも知れませんが、主イエスはこう言われます。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(3:19)
主の厳しさは、主の愛の現れです。御言葉の厳しさは、主の愛の現れです。熱心に聞き、熱心に方向転換をする者は本当に幸いです。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(3:20)
ぬるい状態のラオデキヤ教会に、主イエスは愛をもってチャレンジの言葉を投げかけておられます。彼らにもチャンスがあるのです。御言葉に耳を傾けて応答するなら、主イエスとの親しい交わりが与えられるのです。
これまで7つの教会を見てきました。これはこの黙示録が書かれた当時に実在した教会です。それと同時に、七という完全数が指し示しているのは、これが全時代、全世界の教会の特徴をも反映しているということです。ここには多くの教訓があります。最後に、それぞれの教会の名前の意味(あるいは語源と思われるもの)を記しておきましょう。各教会の特徴と照らし合わせると非常に興味深いものがあります。
・エペソ(後ろ)
・スミルナ(没薬、苦味)
・ペルガモ(結婚、結合状態)
・テアテラ(永続的な犠牲)
・サルデス(残された者、逃れる者)
・フィラデルフィア(兄弟愛)
・ラオデキヤ(民の主張、民の支配)
*1:患難後携挙説を取る人々は「試練の中で」と理解するが、我々は「試練の時から」と理解する。黙示録において最初は繰り返し「教会」が登場するが、患難時代の記述においては一度も出てこない。そのことは「試練の時から」教会が守られ、携挙されたことを示していると考える。