道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一サムエル記15章

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サムエルは、サウル王に「今、主の言われることを聞きなさい」と権威をもって語りかけ、神のことばを告げました。聖書が教えている秩序は、人間を頂点としたものではなく、神ご自身を頂点にしたものです。王でさえも、神のみことばの前にひれ伏さなければなりません。

 

この箇所は、ある意味、悲劇的な形でそのことを私たちに教えています。

 

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「…万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。』」(15:2-3)


アマレク人とは誰でしょうか。彼らは、創世記に登場するエサウの子孫でした。*1エサウの子孫はエドム人と呼ばれますが、その中でも主なる神を信じてイスラエルの民に加えられる人々も現れましたが、アマレクの系統はそうではありませんでした。出エジプトの出来事の際にアマレク人たちがイスラエルの民に対して行ったことを、モーセはこのように語っています。

 

あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。(25:17-19)

 

私たちは思わず「愛の神がなぜこのような復讐を命じたのか」「過去のことなど水に流してやればいいじゃないか」と言いたくなります。しかし、主なる神が「主」なのです。神ご自身のことばこそが基準なのです。私たちがもし、神が絶対者であられることを忘れ、自分たちが非常に狭い視野しか持っていない小さな被造物に過ぎないことを忘れるなら、とんでもない思い違いをすることになります。サウルは、サウルに語られたみことばをしっかりと守る必要がありました。


もちろん、神様は現代において、サウルにお与えになったような内容の命令を下されることはありません。しかし、神のことばの権威は変わりません。私たちは聖書が今の私たちに命じている教えに権威を置き、その前に服する態度を持つ必要があります。


サウルは、アマレク人を討ち、その王であるアガクを生け捕りにしました。ここまでは良かったのですが、この後サウルと民は非常に大きな罪を犯します。

 

しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。(15:9)


サウルは主のことばにしっかりと従っているでしょうか。彼は「すべてのものを聖絶せよ」と言われていたはずです。つまり、全てを滅ぼし尽くし、自分のものにするなということです。しかし、「もったいないなぁ。欲しいなぁ」と思って、特に良いものを自分たちのものにしてしまったのです。神のことばよりも、自分の欲望や価値判断が彼を支配していました

 


みなさんは、創世記の中で、信仰の父アブラハムが甥のロトを救出する戦いをしたのを覚えていますか。この戦いに勝利した際、アブラハムは戦利品を自分のものにせず、むしろ十分の一の捧げものをしました。勝利は自分の力によるものではなく、神の力によるものであったと知っていたからです。

 

糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。(創世記14:23)

 

主なる神はサムエルに、サウルの王権を取り去るとお告げになります。その理由はただ「(主の)ことばを守らなかった」ことにありました*2。サウルは確かに部分的には主のことばを守って、アマレク人に戦いを挑みました。彼自身も「私は主のことばを守りました。」(13)と語っています。しかし、神の人サムエルは「では、あの動物たちの鳴き声は何だ?」と追求します。サウルは「捧げものにするために取っておいたんですよ」と苦しい言い訳をしますが、サムエルは主から告げられた通りに彼を罪に定めます。


私たちも、サウルのように“部分的”にみことばに聞き従うことをしていないでしょうか。それは、正確に言うなら「みことばに逆らっている」ということになります。また、みことばに従わない言い訳をしていないでしょうか。「私はこういう事情で、これこれの目的で、神様、あなたのためを思って…」などと苦しい弁解をすることがあるかも知れません。

 

するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(15:23-24)

 

みことばに聞き従うことこそが、何にも優る捧げものです。最近のキリスト教界においては、従順やみことばの権威を強調すると「律法主義」というレッテルを貼られてしまいがちです。確かに私たちは「恵みの時代」に生かされており、イエス様の十字架によって罪を赦され、信仰によって義とされ、サウルのような裁きを受けることはありません。救われた者たちは、神様の前から退けら捨て去られることは絶対にありません。

 

でも、だからこそ、「主よ、本当にありがとうございます。何度もあなたに背いた私、それゆえあなたから見捨てられて当然の私、この私さえも退けることなく永遠にあなたのものとしてくださっている愛に感謝します。このためにあなたが払われた御子の命という犠牲にただただ感謝します。あなたの計り知れない憐れみと恵みに応えて、私はあなたに聞き従っていきたいです!」と告白し、そのような歩みに励みたいと思うのです。真に恵みを受け取る者は、必ずや真に神に従う者へと変えられていきます。

 

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*1:「ティムナはエサウの子エリファズのそばめで、エリファズにアマレクを産んだ。」(創世記36:12)

*2:この15章には「神が悔いた」ということと「神は神なので悔いることはない」という、一見矛盾するようなことが記されている。これは一つの事柄を別の方向から見て表現していると理解するのが良いだろう。神の側から見れば永遠の計画(御心)は「不変」であるが、人間の側から見れば神の仰ったことや方針が転換したように「見える」ということである。参考リンク