第一サムエル記20章
いよいよサウル王のダビデ殺害計画が本格化します。それと共に、ヨナタンとの間の友情もクライマックスを迎えています。ダビデは王に招かれた食事を欠席するため、ヨナタンに執り成しを頼みます。ダビデはこう語りました。
どうか、このしもべに真実を尽くしてください。あなたは主に誓って、このしもべと契約を結んでおられるからです。もし、私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして私を父上のところにまで連れ出す必要がありましょう。(20:8)
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ここで「真実」と訳されていることばは、神の恵みや契約関係における「愛」を表すときによく用いられる「ヘセド」という語です。単に感情や状況に基づく愛ではなく、どんなことが起こっても命がけで契約を守り、忠誠を尽くすといった愛です。ヨナタンはこう語ります。
「もし、私が生きながらえておれば、主の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。…(20:14-16)
ここにも「ヘセド」という語が二回出てきており、どちらも「恵み」と訳されています。「主の恵み」と「あなた(ダビデ)の恵み」です。私たち人間にはそもそも、誰かに与えることがでいるような恵みがありません。私たちはただ主の恵みを受け取ることしかできない存在です。しかし、主の恵みを受け取り、それに満たされる時、私たちも誰かに恵みを施すことができようにされるのです。
もしかするとこれが最後の会話になるかも知れないと思いながら二人は話をしていました。実際、この後、ヨナタンは実の父サウルに殺されそうになるのです。そのような中で相手に対して真実を尽くし、恵み深い態度を最後まで貫く…。なんと麗しい関係でしょうか。これが、主の恵みを注がれた者たちに与えられる人間関係の究極の姿です。ここで交わされているのは個人を越えた家と家との契約です。これは、ダビデが王となってもサウルの一族に対して憐れみをかけて欲しいとの願いです。ダビデはこのことをやがて誠実に全うすることになります。
ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。(20:17)
ここにも、原文では三度「愛」「愛する」ということばが出てきます。しかし、結局、サウルがダビデを殺そうとしていることが明白になり、ヨナタンは弓矢を用いた暗号でダビデにそのことを知らせます。しばらくして安全が確認されたので、二人は別れの挨拶を交わします。
…ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。ヨナタンはダビデに言った。「では、安心して行きなさい。私たちふたりは、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」こうしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。(20:40-41)
「口づけをした」といった記述や、ヨナタンの死に際してダビデが「私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった」(2サムエル1:26)の記述を見て、ある人々は「同性愛を支持している聖句だ」と言います。これはとんでもない理解です。口づけはある文化圏においては、同性同士の挨拶の方法としても一般的なものです。イエス様のたとえ話の中でも、父親は放蕩息子を口づけで迎えます。パウロは、教会に対して「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。」(ローマ16:16)と語っています。文化的な背景を理解して読む必要があります。
ダビデは立ち去り、ヨナタンはサウル王の下に帰っていきます。読んでいると涙が出てきます。悲しいかな、彼らは共に歩むことはできませんでした。それぞれがそれぞれの場で為すべきことをするしかなかったのです。それでも、距離を越え、状況を越え、時間を越え、二人の信頼関係、主の恵みに基づく「恵みあふれる友情関係」は続いていきます。私たちも主の恵みを豊かに受け取りながら、それを分かち合う人間関係を目指して歩みたいと思います。