道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ12章13-34節

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悪意による一致


パリサイ人たちは、異邦人国家であるローマ帝国によってユダヤが支配されていることに強い嫌悪感を覚えていました。ヘロデ党の人々は、ローマと友好的であることに政治的・経済的メリットがあると考えていた人々です。主義主張が真反対で犬猿の仲であったはずのパリサイ人とヘロデ党が、主イエス様に敵対するために手を組んでいます。

 

 

これは、残念ながら私たちに身近なところでも起こり得ることです。「手を組む」「協力する」というと聞こえは良いのですが、それが一体「何のためであるか」が重要です。時に人は、悪意という共通項で一致することがあるのです。


彼らは主に対して慇懃無礼な挨拶をした後、なんとも嫌らしい質問をします。それは「カイザルに税金を納めることは律法にかなっているか、否か」というものでした。神に敵対するローマ帝国に税金を納めることは、神に敵対することになるのではないか、という問いです。これに対して「税金を納めるな」と答えれば、ローマへの反逆罪で告発できます。「税金を納めよ」と答えれば、ローマの支配にうんざりしていた多くのユダヤ人たちの反感を買うのです。

 

イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」(12:15)

 

彼らはまるで「真理を知りたい」と願っているかのように擬装していました。これは「偽善」とも訳されることばです。悪意をもって神に敵対する者たちが、善意を装うことはしばしばあります。「サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(2コリント11:14)とある通りです。

 

主はそれを見抜き、デナリ銅貨を持って来させます。そして、銅貨に刻んであるローマ皇帝の肖像を人々に見せ、非常に有名なことばを語られます。

 

するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。(12:17)

 


すべては神のもの、すべてを神の栄光のために


カイザルのものをカイザルに返すとは、ここではローマ貨幣を用いて税金を払うことを指します。問題は「神のものを神に返す」が何を意味するかです。みなさんはどのように考えるでしょうか。

 

ある人々は、この主のことばを「使い分け」を教えているのだと理解します。税金も、献金も、自分のために使うお金も、すべてを同列に並べて、それぞれ適当に配分しなさいという考え方です。しかし、そうではありません。この主のみことばは、もっと根本的な私たちの世界観、人生観を教えています。参考にいくつかの箇所を挙げて、その世界観と人生観を確認しましょう。

 

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。(詩篇24:1)

 

そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。(1コリント3:23)


私たち人間は、神の像(かたち)を刻まれている「神のもの」です*1世界のすべてと私たちの全存在は、この神ご自身の栄光を反映するため創造され、神に捧げられるべきものです。カイザルへの税金と神への捧げものは同列に並べられているのではありません。全ての営みが神への捧げものであり、その中に税金も含まれるべきなのだと教えられているのです。つまり、「神のため」「神の栄光のため」という目的をもって税金をしっかりと納めるということです。


ある“クリスチャン”たちは、国家が神に敵対する存在であると考えます。しかし、聖書は国家の危うさや限界を指摘しつつも、その権威を重んじるよう教えています。ですから私たちは、為政者のために祈り、国民・市民としての義務を果たす必要があります。それらのことを嫌々、しぶしぶ行うのではなく、主の栄光を輝かすために誠実に行うのです。すべては神のもの、すべてを神の栄光のために…。

 


聖書も神の力も知らない宗教家たち


次に現われるのは、サドカイ人たちです。サドカイ人とは、当時のユダヤ教の最大勢力であり、自由主義・合理主義的な立場をとっていました。つまり、復活も、天使の存在も信じない立場です。彼らも真理を知りたいという願いからではなく、主を罠にかけたいがために質問をしました。それに対して、主はこう答えられました。

 

「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」(12:24)


このような思い違いをする人々は、サドカイ人だけではなく、現代のキリスト教界においてもかなりの割合を占めています。彼らは「聖書を文字通りそのまま信じるなんて極端だ」「もっと合理的、現代的に再解釈をすべきだ」と言います。彼らは、聖書に記されている奇跡、そして、処女降誕や復活を信じません。サタンの存在も、天国や地獄も、文字通り信じることはしません。しかし、そのように考える“キリスト教”は、神抜きのヒューマニズムに陥り、神の力を失った形式的な宗教に陥っていきます。


残念ながら、「聖書を文字通り信じる!」と称する人々の中にも、誤ったいい加減な聖書解釈をし、それに基づいて著しく誤った愚かな行動を取る人々が少なからずいます*2。しかし、聖書を素直に信じることが問題なのではなく、聖書を知らない(正しく理解していない)ことがそのような問題を引き起こしているのです。聖書を素直に信頼し、聖書の教えていることを深く正確に知っていく時、私たちは本当の意味で神の御心に適った歩みをし、神の力を体験していくことができます*3

 

 

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*1:「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:26-27)

*2:例えば、中絶を反対するがゆえに、中絶を行う医師を殺害してしまった事例や、独自の聖書解釈に基づいて再臨の日時を特定し、人々に今の生活を捨てるように促す事例など。

*3:我々がモデルとすべきは、ベレヤの信徒たちの姿である。彼らは聖書を素直に信頼し、同時に、自分たちの理解や解釈を絶対視しない謙虚さを持っていた。そいて、より正しい聖書理解を求めて研究を続けていたのである。「兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:10-11)