マルコ12章35節-13章13節
人が注目する信仰、主が注目される信仰
この箇所では、律法学者や金持ちたちの「人見せるための信仰」と、一人の貧しいやもめの「主がご覧になる信仰」が対比されています。
「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(12:43-44)
主は「まことに…告げます」と注意を促して、このことを語られました。私たちも注意深くこの御声を聞く必要があります。人は多額の献金や雄弁な説教などを「素晴らしい」と見るかも知れませんが、主が目を留められる信仰は必ずしもそのようなものではありません。
献金や奉仕は、人の目から見える華やかさや量が問題ではありません。しかし、そこに本当に心があるなら、それは精一杯のものとなっていくはずです。人と比較してベターを捧げるのではなく、自分としてのベストをお捧げするのです。それに主は目を留めてくださり、「どの人よりもたくさん」と評価してくださいます。
今日では、多くのクリスチャンたちが、将来のことに備えていないと言って彼女を非難することだろう。はたして、このやもめの行為は、将来の見通しや慎重深さの欠如を示しているのだろうか。おそらく人々はそう論じ合うだろう。しかし、信仰の生涯とは、すべての神の働きのためにささげ、将来のことを主にゆだねることである。主は、神の国とその義とをまず第一に求める者たちのために備えてくださると約束されたのではなかったか。過激だろうか。革命的だろうか。いや、私たちはキリストの教えがそのようなものであることを理解しないかぎり、主の大事な教えを見失ってしまうことになる。(ウィリアム・マクドナルド)
オリーブ山の説教
マタイの並行箇所の解説を参照してください。上の写真は、オリーブ山から見降ろしたユダヤ人墓地です。白く塗った墓(マタイ23:27)がたくさんありました。