道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ13章22節-14章11節

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「狭い門」と「広い道」のどちらが福音か?

十字架へと向かって進まれる主イエス様に、ある人物が質問をしました。それは「主よ。救われる者は少ないのですか」という問いでした。それに対する主の答えは、とても有名なみことばです。

 

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」(13:24)


ここで「努力して」と訳されているギリシヤ語は「コンテストで競う」「スポーツの試合で勝とうとする」「困難や危険と格闘する」などの意味をもつことばです。この箇所を読んで「行いによる救い」を教えていると誤解する人もいますが、人が救われるのは100%“神の恵みのゆえ”です。誰も行いによって救われることはできないのです。


しかし、同時に、恵みによって確かに救われた人は、内に住まわれる聖霊の働きによって敬虔に生きようと願うようになり、救われた者としてふさわしい生き方をしようとし始めます。これは救われる“ため”の行いではなく、救われた“から”起こる行いです*1

 

現代を代表する説教者であるジョン・マッカーサー牧師は、次のように語っています。

 

「自分はクリスチャンだと宣言する人がすべて真のクリスチャンであるわけではありません。救われていない人がキリストに対する形だけの信仰告白をし、本当はクリスチャンではない人が、クリスチャンであると思い込むことがあるのです。 」(ジョン・F・マッカーサーJr.)

 

これは非常に“人気のない”教えです。これを「狭い考えだ」と非難する人もいるでしょう。しかし、これは主イエス様ご自身の教えです。マタイの福音書ではこのように記されています*2

 

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。(マタイ7:13)

 

聖書に基づいて正しく福音を語るなら、それは「狭い門」になるでしょう。自分の罪を認めることを拒み、主イエス様を救い主として信じることも、主としてこのお方に従うこともしたくない人々が多いでしょう。それでも、「広い道」という偽りの福音を語って人々を欺くよりも、それは神の御前に誠実なことです。主を畏れつつ、恵みと慈しみに満ちた態度で「狭い門」の福音を語ることが教会のなすべきことなのです。

 

当時のユダヤ人たちは、自分たちはまぎれもなく神の国に入れると考えていました。しかし、ほとんどの人々がメシヤを拒み、自ら神の国への門を閉ざしました。そして、むしろ「神の国に遠い人々」「しんがりの者」と思われていた取税人や売春婦たち、異邦人たちが救いにあずかったのです。

 

エルサレムでの死、エルサレムへの愛、エルサレムの行く末

 

神からの預言者たちを拒絶して殺し、メシヤをも十字架に架けようとしているエルサレムの都を、主は愛おしんで「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれます。神であられる主イエス様は、肉体をとって地上に来られる以前から、ユダヤ人たちを愛し、さながら親鳥がひなを翼の下に集めようとするようにして、幾度も立ち返らせようとなさいました。しかし、彼らはそれを拒絶し続けたのです。

 

見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」(13:35)

 

そして、ここで主が預言しておられるように、エルサレムはこの出来事の約40年後に陥落し、それ以来今日まで神の都としての本来の姿を取り戻すに至っていません。「あなたがたの家」は「エルサレム神殿」を指しますが、現在、神殿の丘にはイスラムのモスクが立ち、主イエス様をメシヤとして信じるユダヤ人はごく僅かです。「…ときが来るまで」とあるように、主が再臨されるまでこの状態は続きます。私たちはこの日が一日も早く訪れるよう祈る必要があります。


正解か不正解かを問うよりも大切なこと


ある安息日、主は、パリサイ人の指導者の家に入られました。人々は主に注目していますが、それはあら探しをする目的であったようです。おそらく主を試すために一人の病人があらかじめ連れて来られていました。主はすべてをお見通しで「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と敢えて尋ねられます。


当時の人々は、モーセ律法から派生した「口伝律法」にがんじがらめになっていました。何に関しても常に、自分たちの作り上げた掟に照らし合わせて「正解か、不正解か」を問うていました。彼らは不正解を恐れて様々なことを禁止し、この時も不正解を恐れて「黙って」います。

 

一方の主は、「正しいことか、よくないことか」という答えを口で語る代わりに「その人を抱いていやし、帰された」のです。「正しいか、よくないか」を考えたり、議論したりする以上に大切なことは、そこに神と人への愛があるかどうかです。


私たち日本人も「正解」を出すように教育され、「不正解」を恐れるメンタリティーを持っています。そして、「不正解」「失敗」をするぐらいなら何もしない(言わない)でおこうと考える人々が非常に多いのです。少々の失敗など恐れずに、神と人を愛するがゆえの行動を起こし、発言をすることが私たちにも求められています


パリサイ人たちは懸命に自分を高くし、見栄をはり、誰よりも良い席に座りたいと競い合っていました。彼らの心にあったものは、神と人への愛ではなく、自分自身への愛でした。私たちも彼らと同じような心の状態になってしまうことがあります。これらのみことばを自分自身へのメッセージとして聞きたいと思います。

 

主よ、私たちの心をあなたへの愛と人々への愛で満たしてください。「正解か、不正解か」を迷った挙げ句に何もしないという生き方ではなく、失敗を恐れず、思い切って言葉を発し、行動をする勇気を今日の私にお与えください。

 

*1:ところが、私たちは救われた後も地上おいては“肉”と呼ばれる古い性質(考え方や生き方のパターン)を抱えているゆえ、救われた者としてふさわしい生き方ができないことも多い。それでも、真に救われた者であるなら、その人の内面には「“肉”と新しい自分との葛藤や摩擦」が起こっているはずであり、その人は内に住まわれる聖霊の促しにより、何らかの形で(不十分ではあっても)敬虔に生きようと努力をせずにはいられないはずである。

*2:イスラム原理主義過激派「イスラム国」が、欧米や日本の若者にまで影響を与え、彼らを引き寄せていることは周知の通りである。そこには様々な要因があるだろう。一つの要因として私たちが注目すべきことは「“広い考え”の行き詰まり」というものである。いわゆる先進国ではここ何十年もの間 “広い考え” が良しとされ、「絶対的な真理などない」「人それぞれに、その人なりの“真理”や“神”があって良いのだ」といった考えが広まった。従来「キリスト教国」と考えられて来た欧米諸国においても、多くの教会が徐々にはっきりと聖書の教えを語らなくなり、「狭い門」ではなく「広い道」を提供しようとするようになって久しい。しかし、創造の昔から人間の心は真理を探求するようにプログラミングされており、唯一まことの神に向けてデザインされているゆえ、「何でもあり」「何を信じてもいいよ」では心が満たされることはない。イスラム原理主義が勢力を増している背景に、彼らが「狭い門」を提供していることが挙げられるだろう。その教えの内容は非常に問題があり、決して真理ではないが、彼らの「これ“だけ”が道だ!」というメッセージが、人々の心の空洞に届いていっているのだと考えられる。21世紀のキリスト教会は「狭い門から入れ」という教えを、臆することなく、そして、愛と謙遜をもって語るという、本来の在り方に立ち返る必要がある。