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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

使徒の働き10-11章

使徒の働き

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十二使徒は全員がユダヤ人です。ユダヤ人の常識では「ユダヤ人だけ」が神に選ばれた者たちでした。しかし、すべての人々を救いに招くために死なれた主イエスの福音は、異邦人(ユダヤ人以外)にも及んでいきます。

 

10章ではペテロを通してコルネリオという人物と彼の周りにいた多くの人々が救われますが、そのユニークな経緯が詳しく記録されています。ユダヤ人であるペテロは、異邦人との関わりに対して強い抵抗を持っていました。

 

パラダイムシフト(価値観の大転換)

しかし、ある日、彼は夢うつつでいるときに、天から四隅をつるされた風呂敷(!?)が降りてくる幻を見ました。その中には、モーセの律法で食べることを禁じられているものばかりが入っていました。

 

そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」(10:13-15)

 

これは神様によるユニークな視聴覚教育ですが、内容は衝撃的です。私たち日本人は、蛇やワニや犬や猫を食べなさいと言われたら「とんでもない!」と思います。なぜなら、そういう食習慣がないからです。しかし、ユダヤ人が律法の食物規定(レビ記11章参照)に反するということは、単に食習慣の問題だけではなく、霊的にも絶対にあり得ないことだったのです。

 

しかし、主とのやりとりを繰り返しているうちに、コルネリオのもとから遣わされた使者がペテロのもとにやって来ました。

 

ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」(10:19-20)

 

ペテロが下に降りて行き、事情を尋ねると使者たちはこう言いました。

 

「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」(10:22)

 

ペテロは翌日、彼らとともにコルネリオのいるカイザリアを目指しました。到着すると、コリネリオは家から出てきてひれ伏しましたが、ペテロはそれを制します。礼拝されるべき存在は神ご自身だけだからです。

 

(ペテロは)彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。」(10:28)

 

ペテロは彼らにイエス・キリストの福音を告げます。この時には、彼の価値観は大きく変えられていました。生き生きとした伝道の働きを妨げるのは、往々にして私たちの固定観念です。「こうあるべき」「こうやり方はいけない」という考えが障壁になって、誰かに福音を届ける働きにブレーキがかけられてしまうのです。

 

「礼拝は日曜日の午前中でなければならない」「礼拝するのはこういう建物でなければならない」という考え一つ一つを、私たちはもう一度吟味する必要があるかもしれません。神様はペテロに語りかけ、その障壁を取り除きました。私たちもみことばの語りかけを受けながらパラダイム・シフト(価値観の転換)をし、より生き生きと福音を広げていけるようになりたいと思うのです。

 

聖霊の働き

ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。(10:44-46)

 

「異言」とは、聖霊によって自国語以外の言語を話す力が与えられる現象です。おそらく、その他の奇跡と同様に、聖書が書かれた時代に集中的に現れた現象であると考えられます。

 

現代、異言を語ることが真のクリスチャンであるしるしであるかのように考え、場合によっては異言の“練習”などをする人々さえいますが、それは誤った聖書理解に基づく実践です。何よりも重要なことは、日本語であれ、英語であれ、中国語であれ、神ご自身を賛美することです。人が神を賛美をすることは驚くべき聖霊の御業です。心からの賛美は、その人の内で聖霊が超自然的に働かなければ決して出てこないものなのです。

 

さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。(11:1)

 

10章では異邦人に聖霊が注がれたことが強調されていますが、11章でそれは「神のみことばを受け入れた」と表現されています。聖霊の最も顕著な働きは、人々にみことばを受け入れさせることです。皆さんが聖書のみことばを真理として受け入れ、心からアーメンと言えるのは、素晴らしい聖霊の働きなのです。

 

エルサレムのユダヤ人キリスト者たちは、ペテロからの報告を聞いて憤慨します。「割礼のない人々(異邦人)と付き合うなんてとんでもない!」と言うのです。しかし、ペテロは「事の次第を順序正しく説明し」(4節)ました。あの激情型のペテロがなんと冷静な対応をしていることでしょう。聖霊は信じる者たちの人格に働きかけ、成熟をもたらします

 

彼の説明を聞いて人々は沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」(18節)と言って、神を賛美しました。真の聖霊の働きは、人間を賞賛するという結果ではなく、神への賛美を生み出します

 

アンテオケの教会の「クリスチャン」

この後、各国に離散しているユダヤ人だけではなく、アンテオケにおいてはギリシヤ人にも福音が宣べ伝えられるようになりました。アンテオケは今のトルコに位置しますが、当時ローマ帝国第三の都市で、この後の異邦人宣教の重要な拠点になります。アンテオケの教会の宣教の働きは、主の御手と恵みがともにあって、成功を収めていました(21,23節)。

 

エルサレムの教会は、聖霊と信仰に満ちているバルナバ(「慰めの子」の意味の名前)という人物を派遣します。彼はサウロを見出し、働きのパートナーとして迎え、共にアンテオケ教会の牧会を始めます。

 

この時、サウロは三十代半ばでしたが、バルナバに声を掛けられていなかったどうなっていたか分かりません。少し前の箇所で見たように、主に出会ったサウロは最初の宣教活動で挫折し、おそらく10年ほど引きこもっていたようです。一人の人物を伝道者、牧会者として育てるには、その人を見出し、声をかけ、共に働き、成長をサポートするバルナバのような存在が不可欠です。

 

…まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。(11:26)

 

アンテオケの町は、決して伝道のしやすい場所ではありませんでした。アンテオケの住民は「聖書?創造主?何それ?」という異教的な人々でしたし、偶像礼拝や不道徳な習慣も当たり前でした。そのような町で、弟子たちは初めて「キリスト者」「クリスチャン」(ギリシヤ語で「クリスティアノス」)と呼ばれるようになったのです。

 

この「クリスチャン」とは本来、他の人々からの呼称でした。つまり、みことばの教えを学び続け、それに動かされてキリストを熱心に愛し、全身全霊をもってキリストに倣おうとする人々のことを、人々が「アイツらは、まったくキリスト馬鹿だ!」「キリスト気違い」と呼んだのです。

 

クリスチャンであることは、その人のプロフィール欄の単なる一項目ではありません。その人の「在り方」「生き方」そのものなのです。でも、私たちは自力でクリスチャンに“なる”ことはできないし、自力でクリスチャンで“あり続ける”こともできません。

 

それをしてくれるのは、神ご自身である御霊とみことばです。アンテオケのクリスチャンたちのように、御霊とみことばで私たちの内側が満たされていきますように。

 

※写真は2014年にカイザリアで撮影したもの。

  

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