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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ローマ人への手紙1章(2)

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私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(1:16)

 

何を誇りにし、何を恥とするか…。私たちの感覚とパウロの生き方とにはずいぶんギャップがあります。しかし、もしこのパウロが味わい見つめ続けていた福音に、私たちも出会い、彼が味わっていたように味わい、それを見つめ続けるなら、私たちの人生も変えられていくことでしょう。

 

なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(1:17)

 

これはローマ人への手紙のテーマ聖句と呼んでも良いでしょう。この手紙のテーマは「神の義」です。この内容については、読み進めていくうちに明らかになっていくでしょう。

 

さて、この後、パウロは「神の怒り」という問題に話題を進めます。この問題を無視して、いくら「信仰義認」を説いても実は意味がありません。聖書に関する理解を持たない日本人に福音を伝える際、いきなり「イエスがあなたの罪のために十字架にかかった」というメッセージを伝える人がいますが、残念ながらほとんど何も伝わりません。*1そのような伝え方は、あまりにも前提を端折って結論だけを投げつけているようなものです。

 

本当に素晴らしい恵みの福音にとらえられるためには、神ご自身について知り、神に対して私たちがいかに弁解の余地のない罪人であるかを知り、その罪人に対していかに神が怒っておられるかを知る必要があります。

 

 何が一番の問題だろうか。「神の怒り」という問題である。それが出発点である。このことは、いかに繰り返し言明しても足りない。伝道の始まりは、主イエス・キリストでさえない。神である。神と神の怒りを抜きにした伝道になど何の意味もない。それ以外のものには、筋も通っていなければ意味もない。友としてのイエス、あるいは、肉体的な癒し主としてのイエス、あるいは、ちょっとした慰めを与えるお方その他としての「イエスに来たれ」と人々を招いてはならない。否。イエスは《救い主》である。「失われた人を捜して救うために来た」お方である。しかし、なぜ私たちに救いが必要なのだろうか。答は、「人々のあらゆる不敬虔と不正に対する神の怒り」のゆえである。そして、使徒によると、その怒りはすでに啓示されている。啓示されたこの事実を踏まえてこそ、パウロはこの《福音》を喜んでいるのである。自分が信じるようになった、そして、今それを宣言する特権を与えられているこの福音を。・・・もちろん、「神の怒り」とは、気分まかせに感情をぶちまけることでも、理不尽な怒りにわれを忘れることでもない。意味されているのは、神が罪と悪を完全に嫌悪なさるということである。(D.M.ロイドジョンズ)

 

神の怒りは旧約聖書において啓示されており、また、人々の悪しき行いにおいても啓示されています。現代にも見られるように、人間が欲望のままに汚れた生き方をしているのは、神が彼らをそのような生き方に引き渡しておられるからであり、それは神の怒りの啓示なのだとパウロは教えているのです。

 

人々が神に従うことを拒み、神の律法を拒絶し、神などいなくとも人生はうまくやっていけると言うとき、神は最初はそうしないように促される。ご自分の使者たちを遣わし、人々を引き留めようとされる。だが、もし人々がその悪の道に、また、自分たちの反逆にしがみつき続けると、ある時点がやって来るのだ、と使徒は言う。そのとき神は、人々を放り出し、いわばその人々自身に「引き渡す」ことにされる。「よろしい」と神は実質的に言われるのである。「お前たちが、わたしを抜きにして生きられると考え、そう口にしている以上、そうするがいい。そして、その結果どうなるか見てみるがいい」と。(D.M.ロイドジョンズ)

 

*1:敢えて言うなら、違和感だけが伝わり、拒否反応を呼び起こす。その違和感や拒否反応は、「理解したけれども信じない」といった反応ではなく「何を言っているか意味不明」というもの。