2章のテーマは、神の正しい審判(裁き)です。
「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。」(6)
ここには「報い」と記されています。これは、一人ひとりがしたことの当然の結果として受け取るものということです。審判は、神が気まぐれになさるものではありません。これは原因から出た結果です。原因は当然、私たち自身の罪にあるのです。
「もしあなたが『私たちはそのことを知らなかった。』と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。」(箴言24:12)
「神は、ひとりひとりに」とあるように裁きは例外なくすべての人に起こりますが、パウロは良い報いを受ける人々と厳しい裁きを受ける人々を対比して語ります。
「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのち」(7)が与えるとパウロは教えます。これは、忍耐を持ってイエス・キリストを救い主と信じ、告白し続ける人のことです。他の箇所と照らし合わせて理解するなら、この箇所は「そういう生き方をするならばその功績が認められて永遠のいのちを獲得できる」ということを意味しません。むしろ、恵みによって永遠のいのちを授けられた人はそのように信仰を全うするということです。
少し整理しましょう。神は行いによって報いをお与えになります。しかし、罪人は良い行いをすることができません。本来、すべての者たちが良い行いのできない罪人なのです。しかし、神はある者たちを恵みによって選び、その者たちに永遠のいのちを授け、良い行いさえも与えてくださいます。そして、その良い行いに良い報いをお与えくださるのです。つまり、すべてを神が始め、神が推進し、完成させられるということです。このことの不思議さと素晴らしさは今後も見ていきます。
さて、7節をもう一度注意深く見ましょう。真に新しく生まれ、キリスト者となった人物は、主の栄光を現わすことを追求して生きるようになります。生まれながらの人は自分の栄光ばかりを求めて神の栄光などは考えもしないのです。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(1コリント6:20)
さらに、その人物は誉れを求めて生きるようになります。これは、人間からの評価ではなく、神からの賞賛に希望を置いて生きるということです。世の人々はキリスト者を評価しないことも大いにあり、憎まれることも大いにありますが、最も重要なことは主が喜んでくださるかどうかなのです。
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」(1コリント4:5)
そして、この人物は不滅のものを求めて生きるようになります。不滅のものは、1コリント15章に何度も出てくる「朽ちないもの」です。不滅のものとは、やがて与えられる復活のからだであり、新しい天と新しい地のことです。永遠のいのちを授けられた人は、このような終末的な視点を持つようになるのです。
しかし、残念ながら皆がそのような生き方をするわけではありません。「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」(8)とあるように「反キリスト者」には怒りと憤りが約束されています。
党派心を持つとは、平たく言えば「自分(たち)中心」な態度のことです。真理に従わない、不義に従うとは、神が啓示されている真理に背を向け、義(ただ)しさとはかけ離れた自分自身に従うということです。
神は喜んで永遠の命をお与えになるお方ですが、怒りと憤りを下される際には喜んでおられません。「愛の神なのに怒るのか?」「裁くなんてひどい」と主張する人々もいますが、これは神のせいではなく、罪人が当然のものを刈り取っているに過ぎないのです。神が公正なお方であることを忘れてはなりません(11節)。
ユダヤ人も、異邦人も、罪の裁きの厳しさにおののき、恐れを覚える必要があるのです。他人を「なんてひどいヤツだ」だと指差している場合ではないのです。この罪の自覚と裁きに対する正しい恐れを覚える者たちは、救い主を求めずにはいられなくなります。
そして、救い主に出会い、差し出された恵みと憐れみに触れるとき、それがあまりにも驚くべき贈り物であることに心打たれるのです。
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