道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ローマ人への手紙3章

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義人はたったひとりもいない

 

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(3:10-12)

 

私たちはこのみことばを厳粛に受け止める必要があります。この箇所を読むと、人間が神抜きに人間の正義を主張することの危うさ、人間が神抜きに自らに悟りがあると勘違いをする愚かさを思い知らされます。私たちは神を信じることはおろか、求めることさえ自力ではできない者であったことが分かります。神抜きに「人間には価値がある!」というメッセージを語ることの愚かさを覚えましょう。パウロは「無益な者」となったと語っています。神の恵みを抜きに善を行うことのできる人は、ひとりもいません。

 

この真理を前提に考えるとき、この世界は全く異なって見えてきます。人間たちの悪が抑制され、一定の秩序と正義が保たれている背後には神の恵みがあることを思わずにはいられません。「私は正しい!お前がまちがっている!」と主張することに躊躇を感じずにはいられなくなります。

 

「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」(3:15−17)

 

確かにこのみことばの通り、罪人には争いを好む性質があり、どうやって平和を築いたら良いかの知恵がありません。しかし、そのような人間に神は忍耐深く恵みを注ぎ、破滅的な状況にならないよう留めておられます。

 

大多数の人々がだいたいの法律を守って生きていること、そう簡単には戦争をしないこと、親切や善意もある程度見られること、これらは当然のことではなく、神がこの世界に恵みを注いでおられることの表れです。

 

「神がいるならどうして戦争が起こるのか?」と問う前に、「神がおられないなら、自己中心な人間が何十億もひしめき合う地球がなぜもっともっとめちゃくちゃになっていないのか?」と問うべきです。

 

…律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。(3:20-21)

 

ここでのポイントは、人間が律法を守ることを通して、神の前に自分の義(ただしさ)を主張することは不可能であるということです。律法というものは人間を正しくするものではなく、人間の正しくなさ(不義)を明らかにし、人間の義とは全く別の「神の義」というものの必要性を明らかにするものなのです。

 

ユダヤ人であるだけで救われると考えている人々や、自分の行いに誇りを持って他者を見下している人々に対して、パウロはここで「突き詰めて考えてごらんなさい。私たち人間がいかに自分を誇っても、神の前で自分が完全にきよく正しいなどと言えるはずがありません。そんなことを言える人間が一人でもいるんですか?」と語りかけているわけです。

 

神は人間達を救い、御自分と和解させることの出来る一つの方法を考案された。その一切は、神の行いから出ている。神は、御自分がその御子-私たちのほむべき主なる救い主-においてすでに行ったことに基づいて、《福音》を信じるすべての者を価なしに赦し、そのあらゆる罪について無罪を申し渡してくださるというのである。しかし、それだけにはとどまらない。そうした者たちはさらに、「イエス・キリストの義を着せられ」、神の御前で正しく義であると宣言される。そこには、否定的なものばかりでなく、こうした肯定的な面もある。私たちはキリストの義を着せられる。その義は私たちに「転嫁され」、「私たちの勘定につけられ」る。それで私たちは神の御前で受け入れられた者となる。ローマ5章19節が言い表すように、この聖にして義なる神の御前で、義人と「指定」されるのである。(D.M.ロイドジョンズ)



「神の義」に関する聖書の一巻した主張

 

歴史上のイエスご自身とパウロの神学を分離して考えることが、19-20世紀の神学においては主流となりました。つまり「キリスト教」というものはパウロの創作物(パウロ教)であるという考えです。しかし、それは誤りです。この義認に関するメッセージは聖書の最初から最後まで見出すことができるものなのです。それは「(モーセ)律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」(21節)とある通りです。

 

つまり、このメッセージは旧約聖書において暗示され、主イエスにおいて明らかにされ、使徒たちによって詳しく解き明かされているのです。アウグスティヌスが「新約は旧約に隠されており、旧約は新約の中で開かれ、明らかにされている」と語っている通りです。

 

信仰による神の義

 

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(3:22-23)

 

この神の義は、イエス・キリストを信じることによって与えられるものです。義人でない者たちが、主イエスを信じることによって神の義を転嫁され、神の義と認められるというのです。これはユダヤ人であれ、異邦人であれ区別がありません。

 

このような信仰による義は、人間の側からの働きかけではなくただ神の恵みによるものです。そうであれば、私たちは自分を誇ることができるでしょうか。

 

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。(3:27)

 

ユダヤ人はユダヤ人であることを誇っていました。ギリシヤ人は自らの哲学、知性を誇りました。私たちは何を誇るでしょうか。 自分の能力、正しさを誇ろうとするかもしれません。経験、実績、知恵、財産、所有物を誇ろうとするかもしれません。「あの人よりもマシだ」ということで誇りを保とうとするかもしれません。

 

しかし、滅ぶべき罪人を憐れんでくださった神、恵みによって御子を与えてなだめの供え物としてくださった神、信仰による義認への道を開らいてくださった神をこそ誇ろうではありませんか。私たちの正義を主張するよりも、このお方の義しさと恵み深さをこそ宣べ伝え、生活の中で現そうではありませんか。これこそが私たちの生かされている目的なのです。

 

 ※ ベツレヘムバプテスト教会(ミネソタ州)前牧師、ベツレヘム大学/神学校学長、ジョン・パイパー牧師によるメッセージ動画


福音中心の生活 − ジョン・パイパー師 (日本語字幕付き) - YouTube