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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ネヘミヤ記7章

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城壁の再建は、7章1節にある「とびらの取りつけ」によって正式に完了します。ネヘミヤは、この後、誠実で神を恐れるリーダーたちをエルサレムの治安長官として任命し、さらに系図の吟味を行いました。

 

私の神は、私の心を動かして、私がおもだった人々や、代表者たちや、民衆を集めて、彼らの系図を記載するようにされた。私は最初に上って来た人々の系図を発見し、その中に次のように書かれているのを見つけた。(7:5)

 

系図を作成することは非常に手間のかかる面倒臭い作業です。ダビデはかつて不純な動機で人口調査を行いました。また、皇帝アウグストは効率的に税を徴収するためにそれを行いました。しかしここでは、神がネヘミヤの心を動かしてこれを行わせます。これは、誰が正式なイスラエル人であるかを確認したり、誰が祭司としての務めに就く資格を持つ人々かを確認する目的で行われた作業です。

 

この箇所の解説からは少し離れますが、関連するテーマですので「会員制度」について考えてみたいと思います。私たちの教会も含め、日本の多くの教会には「会員制度」があります。誰が正式なメンバーで、誰がそうでないかがはっきりしているのです。

 

新約聖書には、教会が会員制度を持つべきであるという教えはありませんので、この制度は必ずしも不可欠ではないでしょう。実際、会員制度を否定するクリスチャンのグループもあり、その主張には耳を傾けるべき部分もあります。しかしながら、それでも私は会員制度が重要なものであると考えており、これをしっかりと機能させることが教会にとって非常に大きな意味を持つと考えています。

 

以下は、バプテストの背景を持つ、私たちの教会の信徒リーダー向けの学習資料の抜粋です。長文ではありますが、参考になると考えてここに引用しておきます。

 

教会員(教会籍)の制度自体は、必ずしも直接聖書から来ているものではありません。海外の教会ではその制度自体を持たないことも珍しくありません。どのような形をとるにせよ、理念として一人一人が教会のかけがえのない一部であり、責任を持って歩むべき肢体であることを忘れてはなりません。


「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ12:5)


私たちの教会は、バプテスト教会の伝統を受け継いでいます。バプテスト教会は、17世紀にイギリス国教会(聖公会)から分離して誕生しました。カトリックや聖公会はもちろん、ルター派や改革派も、当時は「その国、その領主の領地に生まれたら自動的に教会の信者」というのが常識でした。しかし、バプテストは本人の意志をともなわない幼児洗礼を否定し、信仰者のバプテスマを主張しました。つまり、バプテスト教会においては、聖霊の導きにより自ら信仰を言い表した者のみがバプテスマを受け、教会の正式なメンバーとなったのです。

 

キリスト教的背景がなく、むしろ異教的背景の色濃い日本において、一人の人物が「信仰告白」へと導かれるためにはある程度の時間と適切な導きを要します。一度きりの集会での伝道メッセージを聞いた直後に「信じますか?」と問われ、もしその人物が「信じます」と答えたとしても、それは聖霊に導かれたゆえの真の信仰告白ではない場合が多いでしょう。感情が高ぶったか、勘違いであるか、なんらかの義理を感じて良い返事をしているかのいずれかであることがほとんどであると思います。

 

私たちの教会では、入門コースによって順を追って聖書を学びます。時間がかかりますが、第一にすべての学びの基礎となる聖書観を踏まえ、その後、神理解(創造主、唯一の神、義、愛)、人間理解、罪理解、キリスト理解、聖霊理解などを学んでいきます。このコースによって信仰告白に導かれたなら、その人物は次に基礎コースを通して福音の核となる要素を確認し、さらに教会という共同体に加わるために必要な学びをします。

 

そこでは、礼拝の意味、奉仕や献金について、私たち教会固有の歴史や使命、これからのビジョンについて、また、教会のリーダーシップや秩序、教会員としての注意事項を学んだ上で、「あなたは本当に教会員になりますか?」と問われます。このようなプロセスがバプテスマの前になされることは非常に重要であると考えています。

 

日本のキリスト教界において教会生活の平均寿命が2.8年であるという話を聞いたことがあります。その数値の真偽はともかく、「長続きしない」という問題は紛れもなく存在します。私はその背景に「準備の乏しいバプテスマ」があるのではないかと思っています。

 

最悪のケースは、未だ聖霊によって新生が起こっていないにも関わらず、例えば牧師に勧められたといった理由で洗礼を受けるという場合です。受洗者数が少なく、なかなか教会が成長しない中で「受洗したい」という人物が現れると、つい諸手を挙げて歓迎し、安易に洗礼式を行ってしまうのです。しかし、それは結局のところ、教会の深刻な弱体化を招きます。これは、未信者である人物がそのことに気づかずに教会員として歩んでいくという状態を作り出していることになります。


このことは本人の責任であるというより、教会、特に指導者の責任です。このようなことが「バプテスト教会」の看板を掲げる教会においても起こっているのは非常に残念なことです。何も、すべてを理解していなければバプテスマを施すべきでないと言っているのではありません。最低限のことを省いてしまうことの危険性を言っているのです。

 

私たちは他教会からの転入希望者、長期欠席からの復籍希望者にも極力、求道者と同じようなプロセスを通っていただくことを心がけています。あまりにも安易になされた転入会や復籍が、その後、大きなトラブルを招いたケースを少なからず見聞きします。転入を希望する方がどんなに信仰者として優れていても、以前いた教会で指導的な役割についていたとしても、転入を認める上では慎重を期して時間をかけるよう心がけています。

 

それはお互いに「こんなはずじゃなかった!」と思わないためにも重要なことです。その方を疑いの目をもって値踏みするという意味ではありません。ぜひしっかりとこの教会について知っていただいた上で加わっていただきたいのです。幸い、そのようなプロセスを経て転入された方々が、親しく交わりに加わり、教会のかけがえのない一部として良い働きをしておられる姿を見ることができています。

 

真に新生した者たちの交わりであっても、互いの見解の相違が対立を生んでしまうことはあります。私たちは、お互いに性格の違い、興味関心の違い、物事の感じ方に違いがあることを理解し合い、受け入れあう必要があります。また、最終的には、リーダーシップや秩序を重んじることが大切です。

 

そして、私たちの一致が人間的な全体主義ではなく、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致」(エペソ4:13)となることを求めていきます。「信仰は十人十色それぞれ自由で良い」といった意見を聞いたことがありますが、本当にそうでしょうか。むしろ、教会は本来「信仰」の中身においてはしっかりと一致していなければならないのです。

 

私たちの教会は「信仰を表現するスタイル」の多様性を喜んで認めます。ある人は大胆に、ある人は静かに、ある人はクラシック調、ある人はロック調、また、海外に重荷を持つ人たちがいたり、子どもたちに重荷を持つ人たち、祈りに重荷を持つ人たち、事務的な働きに重荷を持つ人たちがいます。これらの多様性は、神様が与えてくださった素晴らしいものです。すべての人が同じスタイルでなければならないということではないのです。

 

しかし、この教会の一致の真ん中に、聖書が私たちに教えてくれている信仰があります。この教会が掲げている「信仰告白」は私たちの交わりの土台です。ここには多様性はありません。私たちは、この信仰告白に心からアーメンと言う人々の群れなのです。さらに言えば、教会のメンバーたちは、この教会の使命とビジョンに自らの意志で加わった人々です。私たちの教会は一つの信仰、一つの使命を共有しながら、それぞれの賜物や性格の多様性を尊重し、神の栄光のために活用し合う共同体です。

 

(リーダーのための学習資料「教会のメンバーシップについて」から抜粋、一部加筆修正)*1

 

 

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教会の調和~健全な姿をめざして~

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*1:形式的に会員制度を採用していても、上に記しているような実態からはかけ離れた教会も多くあるだろう。また逆に、会員制度を用いることなく、実質としては個々が自覚的・自発的な信仰をもって教会形成に参与している教会も少なくないだろう。ここで言わんとしているのは教会員制度そのものの是非についてではなく、教会形成における自由と責任、多様性と一致についてである。