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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

エステル記1-4章

エステル記

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ペルシヤの王、アハシュエロスは、周辺諸国の王や貴族たちを招いて半年にも及ぶ大宴会を開きました。それは自らの威力、国力を誇示するためのものであったでしょう。

 

…王は酒で心が陽気になり、アハシュエロス王に仕える七人の宦官メフマン、ビゼタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、ゼタル、カルカスに命じて、 王妃ワシュティに王冠をかぶらせ、彼女を王の前に連れて来るようにと言った。それは、彼女の容姿が美しかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであった。(1:10-11)

 

退けられた王妃ワシュティ

 

王の意に反して、王妃ワシュティは宴会に現れませんでした。見せ物にされるのは嫌だと思ったのでしょう。それに対して王はどのように反応したでしょうか、「…非常に怒り、その憤りが彼のうちで燃え立った。」(1章12節)と書かれています。王は自らのアドバイザーらに相談し、ワシュティを王妃の位から退ける法令を発布します。それは、ワシュティに対してだけでなく、国中の女性たちに対しても「夫に逆らうと大変なことになるぞ」というメッセージを届けるためのものでした。

 

ワシュティが退けられた後、王は「容姿の美しい未婚の娘たち」(2章3節)を国中から集め、お妃候補とします。ここに、モルデカイに養育されていたエステルも呼び出されます。

 

 

選ばれた王妃エステル

 

王の命令、すなわちその法令が伝えられて、多くのおとめたちがシュシャンの城に集められ、ヘガイの管理のもとに置かれたとき、エステルも王宮に連れて行かれて、女たちの監督官ヘガイの管理のもとに置かれた。 このおとめは、ヘガイの心にかない、彼の好意を得た。(2:8-9a)

 

国を代表するような美女たちが集まる中にあって、エステルは監督官の好意を得ます。「彼女を見るすべての者から好意を受けていた」(2章15節)とも書かれています。エステルは容姿も美しかったのですが、それ以上に内面の美しさが際立っていたことでしょう。このエステル記を読んでいくと、エステルの養父に対する従順さ、同胞ユダヤ人に対する愛と献身、その土台となる信仰が見て取れます。

 

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(1ペテロ3:3-4)

 

ここで言われているのは、身だしなみに気を遣ってはならないということではありません。あくまで「外見<内面」という優先順位を重んじなさいということです。「神の御前」に生きることを忘れ、人前でどのように見えるかばかりを気にする生き方は、聖書的な美しさではないというのです。

 

エステルは自分の民族をも、自分の生まれをも明かさなかった。モルデカイが、明かしてはならないと彼女に命じておいたからである。(2:10)

 

エステル記の主要テーマは「ユダヤ人の救出」です。古代のホロコーストとも呼ぶべきユダヤ人抹殺計画をエステルが阻止します。聖書のどの書物よりも、このエステル記には「ユダヤ人」という言葉が出てきます。しかし、この段階ではモルデカイの口止めにより、エステルがユダヤ人であることは明かされていませんでした。

 

王はほかのどの女たちよりもエステルを愛した。このため、彼女はどの娘たちよりも王の好意と恵みを受けた。こうして、王はついに王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。(2:!7)

 

エステルは王妃になりました。しかし、彼女は高ぶることなく淡々と自らのあるべき姿、歩むべき道を守ります。

 

エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、まだ自分の生まれをも、自分の民族をも明かしていなかった。エステルはモルデカイに養育されていた時と同じように、彼の言いつけに従っていた。(2:20)

 

そのころ、モルデカイは“偶然”王に対する暗殺計画の存在を知り、エステルを通してそれを王に報告します。「“偶然”」と敢えて記したのは、私たちの目から偶然と見えることも、神の側からは決して偶然ではなく“必然”であるからです。この後を読み進めると、それがよくよく分かります。暗殺の首謀者ふたりは木にかけらて処刑されました。「このことは王の前で年代記の書に記録された」(2章23節)と書かれています。この記録が後々、意味を持ってきます。

 

 

高ぶるハマン

 

この出来事の後、アハシュエロス王は、アガグ人ハメダタの子ハマンを重んじ、彼を昇進させて、その席を、彼とともにいるすべての首長たちの上に置いた。それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対してひざをかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった。(3:1-2)

 

王に重用されたハマンは、王の権力を笠に着て横暴な振る舞いをします。しかし、真の神だけを恐れるユダヤ人モルデカイは、ハマンに屈することをしません。特に「ひれ伏す」というのは礼拝の姿勢ですから、モルデカイにとってそれは神ご自身にのみ捧げるものでした。

 

かつて日本の戦時中においても、教会で行われる礼拝の前に「宮城遥拝(きゅうじょうようはい)」という形でまずは皇居に向かって敬礼をすることが求められました。そのような時代の中で、日本を代表する牧師たちが国家に対する忠誠を表すために伊勢神宮に参拝するといった出来事も起こりました。「聖書の神のみを礼拝する」という態度を貫いた人々は少数派でした。

 

これは現代を生きる私たちにも無関係な話ではないでしょう。かつてはキリスト教国として知られたアメリカでさえ、クリスチャンを狙ったテロ事件が繰り返し起こっています。日本においても本当の意味で信仰が試される場面がより多く起こってくるようになるでしょう。

 

ハマンはモルデカイが自分に対してひざもかがめず、ひれ伏そうともしないのを見て、憤りに満たされた。…ハマンは、アハシュエロスの王国中のすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの民族を、根絶やしにしようとした。(3:5-6)

 

ハマンは「王に逆らう民族がいる。放っておくと王のためにならない。彼らを滅ぼすなら、莫大が利益がある」と王をそそのかし、“その民族”を滅ぼす法令を承認させます。

 

このような状況において、神は何をしておられるのでしょうか。ただ沈黙し、見守っているだけなのでしょうか。決してそうではありません。ハマンはユダヤ人抹殺の時期を「くじ」によって定めましたが、それは約1年後と決まりました。くじの結果によっては1ヶ月後でもおかしくなかったのですが、時間的猶予が与えられました。ここにも神が介入しておられるのです。

 

 

立ち上がるモルデカイ

 

モルデカイは、ユダヤ人抹殺の法令が承認されたことを知り、激しく泣き叫びます。その悲しみはやがてユダヤ民族全体に広がりました。エステルも事情を知り、深く悲しみます。ここでモルデカイはいつまでもただ嘆き悲しんでいたわけではありません。エステルに使えていたハタクを通して、彼はハマンの計画の詳細をエステルに告げます。そして、「王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求める」(4章8節)よう、エステルに願いました。

 

最初、エステルは躊躇しました。「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭に入り、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令」(4章11節)があったからです。もし仮に王がその者に金の笏(しゃく=王が持つ特別な杖)を差し伸ばせば処刑を免れて生きることができますが、それは非常に稀なことでした。しかし、モルデカイは消極的であったエステルに対してこう伝えます。

 

「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(4:13-14)

 

モルデカイは慎重で地道な人物でしたが、しかし、ここでは大胆に決断します。地道さ、時を見極める目、いざという時の大胆さなど、彼には良いリーダーの資質が多く見られます。 彼の言葉にエステルは心を動かされ、自分の使命を再認識します。

 

 「…たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(4:16)

 

これは私たちの実際の生活とは関係ない、遠い昔のお話なのでしょうか。私たちはどのような時代を生き、神様からどのような使命をいただいているでしょうか。私たちの置かれている場、与えられている立場や人間関係は、何のためのものでしょうか。ふさわしいタイミングで「私がここにいるのはこの時のため!」という気づきを得るためにも、エステルのように神の御前でコツコツ内面を磨いていきたいと思います。

 

 

賛美「HOSHIANA」(主よ、救ってください)


HOSHIANA (save, please) Joshua Aaron ...