第一サムエル記24章
ダビデが身を隠したエン・ゲディは、死海のほとりの荒野にある泉です。上の写真のように周りには本当に何も無い荒涼としたところですが、主なる神様はダビデを養う水、隠れることのできる洞穴を用意してくださっていたのです。しかし、そこにサウルが手配した三千人の捜索部隊がやって来ます。とんでもない数です。
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ここでなんとも印象深い出来事が起こります。ダビデと側近たちが息をひそめていた洞穴に、ちょうどサウルが“トイレ”のために入って来たのです。ダビデの部下は「今こそが、神様の与えてくださったチャンスです。さあ、サウルの首を取ってしまいましょう」と促しますが、ダビデは気づかれないようにそっとサウルの上着のすそを切り取りました。
彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。(24:6-7)
この後、ダビデは穴から出て来てサウルを呼び止め、自分が王に対して謀反を起こす気などないことを切々と訴えます。ついにサウルは、声をあげてダビデと(少なくともこの時点では)和解をしました。
この箇所は、神様のお立てになった権威に対する私たちの態度のモデルを示しています。ダビデのことばに注目しましょう。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」と彼は語ります。
サウル王に奇襲をかけて命を奪うことは、ダビデにとって主に逆らうことであり、主の前に絶対にできないことでした。サウルは血迷ってダビデを殺そうとしていましたが、それでも主に油そそがれた存在であり、ダビデの主君でした。ダビデは「サウルと自分との関係」でものを考えていたのではなく「主と自分との関係」で現実を理解していたのです。
もう少し丁寧に説明をしておきましょう。ある権威主義的なカルトグループの指導者たちはこの箇所などを用いて、自分がどんなに罪深い行為や誤った決断をしていても「神が油そそいだ私を非難してはならない!! それは神に逆らう行為だ!!」と言い張ります。しかし、ダビデはあくまでサウル王の存在を重んじたのであって、サウル王の全ての行為を是認し、言いなりになっていた訳ではありません。現に、彼は王のもとから逃亡しているのです。聖書は親や年長者、教会の指導者、あるいは職場の上司や国家などに与えられている権威を重んじるように教えていますが*1、しかし、全てのことについて無条件に言いなりになることを教えてはいません。親も指導者たちも罪の性質を帯びており、過ちを犯します。その個別の事柄については疑義を唱えたり、面と向かって反対しなければならないこともあるのです。
ただし、相手に対して神様がお授けになった権威自体を尊重することを忘れてはなりません。親が過ちを犯すからといって親を軽蔑した態度が奨励されるわけではないし、牧師のある方針に賛成できないからといって陰口を言ってこき下ろすことは避けなければならないでしょう。政府の方針に賛成できなくても、「安倍死ね」「引きずり降ろせ」(実際、クリスチャンの中でこのような発言をしている人が多く見られるのが残念ですが)などと言うことは避けなければなりません。むしろ、私たちは真剣に上に立てられた人々のために祈らなければなりません*2。
そして、「意見は反対でも存在を重んじる」「欠けがあっても立場を重んじる」ということを心がけましょう。裁きが必要ならば、正義なる神様がそれを行ってくださいます。主なる神様は私たちのそのような態度をご覧になり、私たちが真に神様を恐れ敬う者であるかどうかを見ておられるのです。ダビデにはそのような謙遜がありました。そして、やがてダビデはちょうど良い時に、神ご自身によって高くされるのです。
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(1ペテロ5:6)
参考記事:「反政府デモは聖書に反する行為」米福音主義者が警告 *3
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*1:あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(ヘブル13:17), 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。」(ローマ13:1-3)
*2:そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2:1)
*3:この記事は、当時、ほとんどの人々が無条件に歓迎した“民主化運動”に対して警鐘を鳴らす、非常に希少な意見であった。福音主義陣営の中でも、このような意見は「保守的すぎる」と非難を受けた。しかし、数年の時を経て、“民主化”されたはずの中東・北アフリカ諸国の多くは混沌とし、このブログ執筆時点でシリア内戦の死者数は17万人を越えている。もちろん、「独裁政権が良い」「民主化されるべきでない」ということではない。しかし、その方法が問われるのである。日本のメディアは政権バッシングをし、それに踊らされた大衆が彼らを引きずり降ろし、次の人々が担ぎ上げられ、そして、またしばらくするとバッシングが始まる…。このサイクルから脱することを考えなければならない。