「行いによる救い」という世界の中でもがきながらギスギスした心で人を裁くパリサイ人たちの姿と、のびのびイキイキとした「恵みと信仰の世界」を示しつつ歩まれる主イエス様の姿が、前の章から続いて対照的に記されています。
応援クリックを!
本来の目的は何か?
通りがかった畑で麦の穂を摘んで食べることは、律法でも許可されている行為でした。しかし、パリサイ人たちは、安息日にはそれをしてはならないという解釈をしていたのです。十戒にもあるように、安息日を守ることはイスラエルの民にとって非常に重要なことでした。
六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。(レビ記23:3)
これはそもそも、仕事の手を休めて主なる神様との交わりの中に憩うための日であり、その習慣を守ることを通してイスラエルの民が他の民族と区別されるためのものでした。しかし、主イエス様の時代には、この安息日に「してはらないないことのリスト」が39項目もあり、さらにそれぞれの項目にはいくつもの細則があったのです。
いつ間に安息日の目的は「仕事を禁じること」になり、安息日に「自分たちはいかに仕事をしていないかを競い合う」といったおかしなことが起こっていました。
主は、ダビデが祭司のパンを食したエピソードを引き合いに出して、形式的にルールを守ることよりも大切な事があることをお教えになります。
「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(2:27-28)
「本末転倒してはならない!」というメッセージです。また、このようにも語られました。
「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。(3:4)
私たちは愚かにも、人間をより良く生かすために与えられたルールを用いていつのまにか人間を縛ってしまいます。また、主なる神様を尊ぶために設けられた秩序を悪用して神を軽んじることをしてしまうのです。私たちが習慣的に行っていることや、当たり前だと思っているルールなどを見つめ直し、それが「本来、何の目的のためのものか?」をチェックしてみる必要があります。私たちの生活の中に、本末転倒はないでしょうか?
キリストの弟子として生きる
この後、主イエス様は十二弟子をお選びになります。
そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(3:14-15)
弟子とは「師から学ぶ人」です。私たちも現代を生きるキリストの弟子です。ある人々は「弟子訓練」の名のもとに、イエス様の弟子訓練とは似ても似つかない「支配」「束縛」を行い、問題となっています。しかし、その反動か、ある人々は「弟子訓練は怖い」「訓練などいらない。神はありのままを受け入れて愛してくださるのだから」と言います。これも誤った極端です。主イエス様ははっきりと弟子訓練を命じておられます*1。
私たちはキリストの弟子として生きることを切に求めたいと思います。イエス様の身近にとどまり、イエス様のことばと生涯から学び続けたいと思います。私たちは自分自身を変えることができませんが、師であるイエス様にはそれができます。本末転倒してしまっている愚かな私たちを、主はひっくり返すことがおできになるのです。
そして、それぞれが派遣された生活の場で福音を宣べ伝え、人々を悪しき束縛から解放する働きをしていくことができるように私たちを訓練し、用いてくださいます。
こういう弟子たちの一団を想像してみましょう。彼らは隅々までキリストのものとされ、キリストの愛によって駆り立てられ、陸であれ海であれ、栄えあるメッセージを携える使者として渡り歩き、うむことなく新しい地方へ急ぎ、どんな人に会っても、そのうちにキリストがそのために死なれた魂を見出し、それらの一人一人が救い主を永遠に礼拝する者になってほしいと切に望むのです。(ウィリアム・マクドナルド)
キリストの弟子として生きる (Developing a Foundation of Faith built on Christ 弟子訓練ミニストリー)
- 作者: セカンドレベル・ミニストリー
- 出版社/メーカー: セカンドレベル・ミニストリー
- 発売日: 2013
- メディア: ペーパーバック
- この商品を含むブログを見る
※上の写真は、カペナウムのシナゴグ周辺で撮影。
*1:「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18-20)主は権威をもって弟子訓練を命じておられる。これは、単にこの命令を直接に聞いた使徒たちだけに与えられた命令ではない。これは世の終わりまで継続されるべき、教会の使命なのである。