第二サムエル22章
22章は、ダビデの歌った賛美が記録されています。これは1節にあるように「サウルの手から…救い出された日」に歌われたものです*1。
その歌が、どうしてこの書の終わりに記されているのか、はっきりとした理由は書かれていません。しかし、おそらくダビデは生涯の日々、その終わりに至るまでこのような賛美を繰り返し歌ったのだろうと考えられます。
彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」(22:2-4)
ダビデは、主がどのようなお方であるかを様々なことばをもって表現しています。また、「わが(私の)」という表現が繰り返されていることから、主とダビデとの関係は非常に個人的・人格的なものであったと分かります。私たちもこのような関係へと導かれていきたいと思います。祈りをマンネリ化させず、ぜひ、「主よ、あなたは私の◯◯です」「主よ、あなたは私に□□□を与えてくださいました」と祈りの中で告白してみましょう。
主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。(22:21-22)
ダビデは決して完全な人物ではなかったし、むしろ決定的な罪、過ちを何度も犯した人物です。どうしてこんなことが言えたのでしょうか。それは、ダビデが「罪の赦し」「信仰による義」を確信していたからでしょう。主を信頼したダビデを主は赦し、もはや彼の中に罪を見ず、義と認めてくださったのです。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」(ローマ4:5-8)
私たちもこの赦しの喜び、平安に生きたいと思います。まるでイエス様の十字架が無駄であったかのように「自分はダメだ。私は罪深い」と嘆くのを止めましょう。自分の失敗や足りなさの中に自分のアイデンティティを置くのではなく、「イエス・キリストを信じた私は不法を赦され、義の衣によって罪をおおわれた存在だ!」「もはや、父なる神は私の罪をご覧になるのではなく、私を取り囲んでいるキリストの義をご覧になっておられるのだ!」と宣言していきたいと思います。
クリスチャン(Christ-ian)から、キリスト(Christ)を取ると「ian」だけが残ります。ある人が、この「ian」は「I Am Nothing」(私は何者でもない)の頭文字になると語っていました。なるほど、私たちから主イエス様を取り除いたら、私たちは何者でもない存在です。いや、それどころか滅ぶべき酷い罪人です。
しかし、今や私たちはキリストと一つにされたクリスチャンです。だから、「そもそもの私には確かに何もない。でも、今の私にはイエス様がいるじゃないか!」と大胆に宣言したいと思うのです。そのような信仰的アイデンティティをもって生きるクリスチャンは、いつまでも自分を責める「苦しチャン」ではなく、感謝と喜びの中で成長し続けることができるよう導かれるのです。これは聖書の約束です!
神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神のほかにだれが岩であろうか。(22:31-32)
「救いはあなたの御名に」(Salvation is Your Name)
Salvation is Your Name (official music video) - YouTube
*1:この歌は詩篇18篇と基本的に同じものである。