権威ある教え
ガリラヤの北岸カペナウムは、当時の交通の要所であり、栄えていた町でした。主は、そのカペナウムを拠点にガリラヤ地方での伝道活動を始められました。
人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。(4:32)
主イエス様のことばに権威があったとはどういうことでしょうか。堂々たる態度で、力強い口調で、演説家のように語ったということでしょうか。必ずしもそうではないでしょう。むしろ、人々は「その教えに驚いた」とあります。この「教え」ということばは、英語では「doctrine」(教理)と訳されていることばです。主の語られる教理の内容が、人々がふだん律法学者たちから聞いていたものとは違ったのです*1。
説教者のカリスマ性や弁舌の巧みさに権威があるのではありません。その口から語られる教えが、真に聖書的な教理であるかどうかが問題です。また、信仰者一人一人が聖書の教えをしっかりと理解し、それを誰かに分かち合うとき、そこにも神の権威が伴うことを覚えたいと思います。
悪霊の追い出し
さて、主が教えをなさった会堂には、悪霊につかれた人がいました。彼の内側にいる悪霊が叫び、「私はあなたがどなたか知っています」と語ります。人々はまだ主イエス様がだれかをよく理解していませんでしたが、41節にもあるように悪霊の方がそれをより敏感に察知したのかもしれません。悪霊どもに信仰はありませんが、彼らは知識の上では神を知っているのです*2。私たちは、口先で「神を知っている」という悪霊と同レベルの知識ではなく、主を信頼する信仰をいただいています。そのような信仰を持つものたちに、悪しき者たちは手出しをすることはできません。
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)
癒された人の奉仕
会堂で教え、悪霊を追い出した後、主はカペナウムにあったシモン・ペテロの家に行かれました。そこでは、彼のしゅうとめが熱病に苦しめられていました。
イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。(ルカ4:39)
主のなさる癒しは瞬時になされる、完全なものでした。病み上がりだから安静にしていないといけない、といったこともなかったようです。しゅうとめはすぐに立ち上がってもてなしをはじめたのです。この奉仕は、主がしてくださった御業に対する感謝の応答です。
聖書の原理は「奉仕をしたら救われる」ではなく「救われたから感謝の奉仕をする」です。「奉仕をしなければならない」と焦ったり、「全然奉仕をしていない」と自分や他者を責めたりするよりも、自分自身がどれほど恵みを受けているか、もったいないほどに祝福されているかを思うことが大切です。そうするなら私たちは自分にふさわしい形で、主に喜ばれる奉仕を捧げるようになります。
寂しい所で
しゅうとめの癒しの後、彼女のふるまう料理を食べ、その後は昼寝でもして…と思ったら違います。
日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。 (4:40)
ひとりひとりに手を置き、すべての人々を癒された後、主は何時頃に床に着かれたことでしょうか。おそらく、相当にお疲れになっていたことでしょう。しかし…
朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」(4:42-43)
主は、ほかの町々に行くことを決断されました。どのようにしてそのような決断をされたのでしょうか。その決め手は「朝になって…寂しい所」に出て行かれたことでした。寝る時間も十分でない忙しい日々の中、主は寂しい所で心の安息を得、霊的な力を補充し、「そのために遣わされた」と仰るように使命を再確認されました。
道に迷いやすい私たちが、自分の使命を確認し、大切な決断を正しく行うためにはどうしたら良いでしょうか。主イエス様がなさったように、一人で父なる神ご自身と交わり、御声を聞き、祈りを捧げることを大切にしていきたいと思います。
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