ヨハネ7章1-24節
久々の更新です。冬休みを経て、その後、ビジョンリトリートのためにある場所にこもり、じっくりと祈りと黙想の時をもって帰ってきました。さて、ヨハネのディボーションですが、この7章は、主イエスが十字架に架けられる約半年前の秋に行われた「仮庵の祭り」が舞台です。
神ご自身の時と方法
主の兄弟(異父弟)たちは、主をメシヤとは信じていなかったのですが、皮肉もこめて「この仮庵の祭りにエスサレムに参上して華々しくデビューしてはどうか」と勧めます。当時のユダヤ人たちは、仮庵の祭りにメシヤが現れ、メシヤの王国(神の国、千年王国)をもたらしてくれると信じていたからです。
しかし、主は「わたしの時はまだ来ていません。」(6節)と言われます。この表現はこの福音書に何度か出てきますが、「時=十字架での受難」を指しています。主はやがて再臨の時に、王であるメシヤとして来られ、ご自身の国を統治されますが、その前に「苦難のしもべ」「屠られる小羊」として過越の祭に現れる必要があったのです。
人々は「今がチャンス」「こうやったらうまくいく」と考えるのですが、神ご自身の時や方法は多くの場合それとは異なります。結局、主イエスは密かに、つまり、王であるメシヤとしてではなく一人の参拝客としてエルサレムに向かわれました。
エルサレムに漂うピリピリムード
ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか」と言って、イエスを捜していた。そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。(7:11-13)
ここでの「ユダヤ人たち」というのは、ユダヤの宗教的・政治的指導者層を指しています。彼らは、主イエスが安息日に病人を癒した出来事などをきっかけに主への怒りや憎しみを募らせていました。しかし、それと同時に「ひょっとして彼はメシヤではないか」とも感じていたので、メシヤが公に現れるとされる仮庵の祭りに「あのイエスは来るだろうか?」とハラハラ、ピリピリしていたのでしょう。
批判的な人、攻撃的な人、ピリピリしている人は、どこかで心の内に恐れを感じています。ひょっとして自分が間違っているのではないか…という思いを懸命にぬぐい去ろうとしてもがいてるのかもしれません。私たちや私たちの周りの人々はどうでしょうか。
語る人と聞く人が響き合う時
一週間の祭りも中盤に差し掛かった頃、主イエスは、宮で教えをなさいました。主の教えは当然ながら、旧約聖書を正しく、深く、豊かに解釈し、心や生活に適用させるものだったでしょう。ユダヤの指導者たちはそれを聞いて悔し紛れに、「コイツはラビ神学校も出ていないし、高名なラビに師事した訳でもないのに偉そうだ」といった意味のことをつぶやきました。
それに対して、主はご自身の教えが神ご自身からのものであることを語られました。そして、神の御心を知って行うことを真に願う人ならばそれが分かると言われたのです。
説教者と会衆の理想的な状態がここに記されています。説教者は、自分の栄光を求めて自分自身のことばを語るのではなく、ただ自分を説教者として遣わされた方のみことばを正確に解き明かすのです。そして、会衆は、自分を人間的に心地よくしてくれることばを求めるのではなく、神のみこころを知って行うことを求めて真摯に耳を傾けるのです。