第二列王記1章
第一列王記を思い出しましょう。ダビデ、ソロモンの時代に栄えたイスラエル統一王国は「北イスラエル」と「南ユダ」とに分裂しました。
その後、特に北イスラエルにおいては、神を恐れない悪王が民を偶像礼拝へと導きました。最悪だったのはアハブ王とイゼベル王妃でしたが、神は、その時代に預言者エリヤをお用いになりました。さあ、第二列王記はその続きです。
誰に伺いを立てるのか?
アハブに続いて王となったアハズヤもやはり悪王でした。彼は怪我がもとで病気になりますが、自分が癒されるかどうか伺いを立てるために70km以上離れたエクロンへと使者を派遣します。
彼が伺いを立てようとした相手はまことの神ではなく、当時エクロンでもてはやされていた「バアル・ゼブブ(蠅の主)」という偶像でした。この偶像の名前は、新約時代になると「ベル・ゼブル(ベブブ)」といってサタンを指す呼び名になりました。
預言者エリヤは、主からのことばを受けて立ち上がり、出かけて行って王の使者たちに語りかけました。
「あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、主はこう仰せられる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。」(1:3-4)
迷ったとき、悩んだとき、私たちは誰に伺いを立てているでしょうか。まるで神がおられないかのように、別の誰か、別の何かの「お告げ」に頼ろうとすることがあるかもしれません。しかし、私たちが助けを求めるべき相手は、主なる神です。私たちが導きを求めて聞くべき声は、このお方の声です!
悔い改めへの招き
主は、意味もなく「必ず死ぬ」と語っておられるのではありません。このことばは単なる脅かしでもなく、取り返しのつかない最終判決でもなく、「悔い改めへの招き」でした。
エリヤのことばを聞いた使者たちはエクロンまで行かず、王のもとへと引き返します。王は彼らに理由を尋ね、使者たちが会ったのは先王アハブを苦しめた預言者エリヤであると悟りました。すると王は悔い改めるのではなく、すぐに五十人部隊を派遣してエリヤを捕らえようとします。
しかし、エリヤは天からの火によって守られました。王は再び部隊を派遣し、もっと強い口調でエリヤに投降を迫りますが、やはり天の火が下されます。王は悔い改めのチャンスが与えられているのに、それに応えるどころか、自分の権力で神とその預言者をさえ自由にできると勘違いしていたのです。
この天からの火について、私たちは自分たちの常識や道徳観念を持ち出して「残酷な出来事だ」と神を裁くようなことをしてはなりません。もちろん、現代の日本においてもこのようなことがそのまま適用されると考えるのも勘違いです。これは、主イエスの十字架以前の「律法の時代」の法則に基づいて「神の民イスラエル」の中で起こった出来事です。ドナルド・ワイズマンという聖書学者は次のように記しています。
エリヤは、個人的な復讐心からではなく、神の御名の名誉のために行動したのである。(ドナルド・J・ワイズマン/ロンドン大学名誉教授)
王は懲りずに第三の部隊を派遣しますが、この部隊長は懸命にもへりくだった姿勢でエリヤに懇願し、自分自身と部隊の命を守ります。そこで主の使いがエリヤに、この部隊長とともに王のもとへ行くよう告げます。エリヤは王を前にしても臆病になることなく、使者たちに語ったのと全く同じように「…あなたは必ず死ぬ」と告げました。
これは神から差し出された最後のチャンスでしたが、王は悔い改めに至ることはなく、「エリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ」と記されています。
私たちも痛い経験を通して神からの警告を受けたり、悔い改めのチャンスをいただくことがあります。その時、私たちは自分の力で神と状況をコントロールしようとするのではなく、主の方をまっすぐに向いて「主よ、私が悪かったのです。どうぞお赦しください。私を滅ぼさないでください」と祈り求めたいと思います。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:8-9)