道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

教会の再生と牧会理念(3)〜霊的な建物の設計者〜

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前回の記事では、教会の抱える様々な病気、その症状について書きました。締めくくりに「さて、このような病気に対する処方箋はあるのでしょうか?」と問いかけ、しばらく時間が経ってしまいましたが、続きを記したいと思います。

 

 

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。(第一ペテロ2:4-5)

 

何回かに渡って、この箇所から「霊の家の建築に学ぶ教会再生」という切り口で共に学んでみたいと思います。

 

霊の家

 

霊の家というのは、お化けの出る家ではありません(笑)。

 

それは、神の霊の臨在のある場所です。旧約では神の家、主の家などとも呼ばれ、新約では主イエスご自身の肉体が神の霊の住まいであり、十字架、復活、昇天を経て、ペンテコステの後は…

 

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(1コリント3:16 )

 

…この聖句にあるように、教会が神の臨在される「神の神殿(霊の家)」です。これは言うまでもなく、教会の建築(教会堂)を指していっているのではなく、クリスチャンたちの共同体、教会という群れを建築物にたとえています。

 

さて、第一ペテロ2章4-5節ですが、これは元々一つの長い文章で、その中心的な動詞は「築き上げられなさい」というものです。教会の建て上げ、そして、再生について、この箇所から以下の4つのことを考えていきます。

 

  • 霊的な建物(教会)の設計者が誰であるか
  • 霊的な建物の建築材料/資材について
  • 霊的な建物の建築目的について
  • 霊的な建物の建築方法について

 

霊的な家の「設計者」

 

霊的な家、すなわち教会は、人間が発明したものではありません。これは、単なる歴史の産物でもありません。設計者は神ご自身です。神が、特別なご計画をもってデザインなさったのですから、教会はあくまで神の意図、神の設計図に沿って建て上げられていくべきです。

 

それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(第一テモテ3:15)

 

パウロはテモテに「教会でどのように行動すべきか」を教えました。霊的な家である教会をどのように建てるか指示したと言っても良いでしょう。つまり、神が施主兼設計士であり、パウロが現場監督、テモテがそれを施工する大工の棟梁といった形でしょうか。

 

私たちの教会堂をリフォームする際に、お世話になった建築士の方はとても素晴らしい方でした。特に「設計図書」と呼ばれる設計図・仕様書の類は非常に詳細で、一切の妥協を許さないものでした。また、施工現場に足繁く通って、指示通りに工事がなされているかどうかを非常に厳しくチェックしてくれました。

 

霊的な建物のために書かれた神の設計図書はさらに厳密です。そして、施工に関してもシビアなチェックがあることを覚える必要があります。

 

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。(第一コリント3:9-17)

 

この箇所は、個人の信仰生活の建て上げについてというよりは、教会のリーダーたちがどのように教会を建て上げるかを語っています。

 

ここでは「どのように建てるか注意が必要だ。いい加減な建て方をするなら、やがてその真価が問われる日が来る…。しっかりと建てたなら報いがある。神の神殿を壊すなら、神がその人を滅ぼす。」といったことが語られています。

 

教会を建て上げるにあたって、どんな材料をどこから仕入れ、どんな工法を用いるかは、あくまで設計者である神様の指示、御言葉通り*1でなければなりません。設計者に権威があるのであって、施工するものたちはそれに服するのです。

 

 設計図以外のものに基づく建築

 

これは自戒を込めて言うのですが、現代の日本の教会でどれぐらいこのことが実際に意識されているかと疑問に思うことがしばしばあります。

 

設計者の意図や指示ではなく「教派的伝統」「団体、組織の都合」「長年の慣習」が優先されることがしばしばあるし、「意見の強い人」「発言力のある人」の言いなりになったり、「経済的状況」「社会情勢」などに流されてしまうこともよく見られます。

 

「効果がある(ように見える)なら、それは良いことだ」という実用主義は、特に、なかなか宣教がうまくいかない日本においては大きな誘惑になり得ます。

 

 

★英語参考記事:方法論に依存した実用主義的な在り方から、聖書に基づく牧会理念へと立ち返りつつある牧師の告白(9marksより)
www.9marks.org

 

  

しかし、もし私たちが勝手に手抜き工事をしたり、神の設計図や仕様書から離れて、「ここはもっと安い材料で済ませよう」「この鉄筋はもっと細くても、外から見えないから良いや」とやるならば、おそらく、欠陥住宅ならぬ「欠陥教会」が出来上がってしまうことでしょう。

 

牧会理念(牧会哲学)を明確にしよう

 

逆にもし、私たちが、神様の設計図に真剣に向き合うなら、どうなるでしょうか。もしかすと、大幅に工事のやり直しを迫られるかもしれません。でも、そこには素晴らしい希望があると信じます。そこにこそ可能性があると信じます。

 

ですから、教会の建て上げと再生を願う指導者たちは、教会論をはじめとする神学に基づく牧会の在り方についてよく吟味し、それを明確に示す必要があります。ニューヨークのティム・ケラー牧師は、「神学的ビジョン」という言葉でそれを説明しています。これは「〇〇年までに会堂を建てる!」とか「我々は◯◯◯名の教会になる!」といった“ビジョン”ではないのです。

 

例えば、「聖書がどんな教会指導者像を語っているか」「どんなミニスリーを優先するように教えているか」「どのようなメッセージを語るべきか」「教会のメンバーとは何か」「どのような事柄を警戒すべきか」「伝道・宣教をどのように行うのか」「救いとは何か」「地域への関わりはどのようにすればよいのか」などなどについて、聖書に基づいて理解を深め、それを「牧会理念」「牧会哲学」として明文化し、教会全体に繰り返し分かち合っていくのです*2

 

これは、設計図をよく読んだ棟梁が、現場の職人さんたちに出す「具体的な指示」に相当すると言えるでしょう。

 

今回は第一ペテロ2:4-5の内容に深く入り込むことができませんでしたが、次回はもう少し詳しく聖書箇所そのものを見ながら「霊的な家の建築資材」について考えたいと思います。

 

(続く)

 

 

 

教会の原点へ立ち返る旅 ~霊性の回復を求めて~

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必要なことはただ一つ ~多元社会を生きる教会の役割~

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聖書信仰に基づく教会形成―西大寺キリスト教会の歩みを一例として (YOBEL新書 49)

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*1:このペテロの手紙第一1-2章には、設計図の一部として次のようなことが書かれている。

 

①みことば(福音)が語られる(1:23-25)
②新しく生まれる人が起こされる(1:23-24)
③みことばの乳に飢え渇き、慕い求める(2:2)
④成長する(2:2)
⑤教会(霊の家)の形成、建築が起こる(2:4-5)
⑥神の民としての特権を生きるようになる(2:9)
⑦驚くべきみわざを宣べ伝える(2:9)

 

①から⑦まで行くとまた①に戻り、これがサイクルしていく。これこそが迫害下にあっても初代教会が成長した秘訣ではないだろうか。

 

 

*2:私自身の場合:

 

混乱し疲弊しきった教会に着任し、2年ほど経った頃、教会はある種のハネムーンで一時的に活気づいていた。しかし、真の意味で生まれ変わるためには、大きな変化が必要であると私は感じていた。

 

その変化のためには、まず、その方向を指し示す「牧会理念」を明文化する必要に迫られ、外部の機関や諸先輩たちの助けも得ながら2年ほどかけて30ページほどの冊子にまとめた。

 

それは、その時の自分たちなりにせいいっぱい聖書から学び、神学書を紐解き、話し合い、考えて書き記したものであったし、今でも「そうだ、その通りだ」と思える内容を多く含んでいる。しかし、「どのようにしたら教会が成長するか」という方法論に偏っている部分も散見され、やがて修正の必要に直面することとなった。

 

その“牧会理念”に基づいて働きを進めていく内にぶちあたったのは、教会としての「信仰理解」の不統一、曖昧さの問題であった。

 

この投稿本文で書いているように、教会の設計図(牧会理念)は、あくまで聖書から導き出されるものでなければならない。しかし、聖書をどう理解するかというところが、あまりにも未整理で、それぞれが勝手気ままに受け取れば良いというような状態であった。(教派・教派としての信仰告白等を持っているグループも多いが、我々の教会が加盟している教派は、非常に簡易な「信仰宣言」のみを持っており、このような事についてあまり頓着しない傾向が強い。)

 

長年教会に集う信徒の方々の多くが「系統だった教理教育は受けたことがありません」というし、教会としての教理声明、信仰告白というものも持っていない状態であった。そこで、我々は5年ほどの時間をかけて、教会としての「信仰告白」の策定を行うことになった。さらにはそれに基づき、「牧会理念」をより、(単なる実用主義、マーケティング、いわゆる“教会成長理論”などではなく)聖書の語る教会像に沿ったものへとアップデートすることになったのである。