偽りに騙されるダビデ
難しいカタカナの名前が多いのでちょっと混乱しますがそれぞれの人物像が見えてくると、その箇所で主が教えておられることが見えて来ます。
ダビデの親友ヨナタンの息子、メフィボシェテを覚えていますか。ダビデは足の不自由な彼を王子のように扱っていました。そのメフィボシェテの側近であったツィバという人物が、山から降りて来たダビデに近づいて、たくさんの貢ぎ物を差し出しました。しかし、彼は、窮地に陥っているダビデをメフィボシェテが裏切ったという知らせを告げます。
それを聞いてダビデは、がっかりし、怒りを覚えました。温情をかけ、愛を注いだメフィボシェテに手を噛まれたと思ったからです。それでダビデは「メフィボシェテのものはみな、今、あなたのものだ」とツィバに告げるのです。
しかし、実はツィバは、ダビデという後ろ盾を失ったメフィボシェテに取って代わり、サウル一族の財産を自分のものにしようと企てて真っ赤な嘘をついていたのです。ダビデはまんまとその策略に乗ってしまいました。私たちも「嘘」「噂話」によって、安易に人を判断することを避けなければなりません。このツィバと同じように、サタンはいつも偽りをもって私たちと誰かの関係、私たちと主との関係を引き裂こうとしています。
神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする。…隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。(箴言11:9,12)
苦難に甘んじて“刈り取り”をするダビデ
さて、ダビデがバフリムというところまで来ると、今度がゲラの子シムイという人物がのろいのことばを吐きながら近づいて来て、ダビデと家来たちに石を投げ始めました。そこで、ダビデの姉ツェルヤの三人の子の一人、血気盛んなアビシャイが怒りに燃えて彼の首をはねようとします。しかし…
王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ』と言えようか。 …見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」16:10-12)
ダビデは、息子に命を狙われ、見ず知らずの人間にのろいの言葉をかけられ、石までぶつけられるという状況を受け入れていました。彼はこの試練の中で、これまで自分自身が姦淫と殺人という大きな罪を犯し、高慢と怠惰の中で長い期間を過ごして来たことを振り返っていたことでしょう。「蒔いた種の刈り取り」として、苦難を甘んじて受け入れていたのです。
私たちは苦しみにあうと「なぜ? どうして私が?」と思います。しかし、このダビデの姿を思い出したいと思います。「私はひどい罪人、本来ならもっと厳しい裁きを受けて当然」という受け止め方を忘れてはならないのです。その時に、私たちは苦難の中でも差し出されている主の恵みに目が開かれ始めます。そして、やがてのろいがしあわせに変えられる日がやって来るのです。
ダビデの友フシャイは、ダビデ側のスパイとしてアブシャロムの陣営に入り込んでいました(15:32-37参照)。アブシャロムは、非常に有能なフシャイが自分になびいてくれたと思って喜び、彼を召し抱えます。後にそれがアブシャロムの落とし穴になりました。
“神のことばのような”ことばを語る人
その後、アブシャロムが軍師アヒトフェルに指示を仰ぐと、彼は、ダビデが王宮に残したそばめ(側室)たちを奪うように言います。つまり、父の妻たちと性的関係を持つということです。これは父親に対する激しい侮辱であり、通常、戦勝の勝者が敗者を辱めるために行う行為です。アブシャロムはそのアドバイス通りにおぞましい行動を取り、イスラエル中の人々がそれを知りました。
当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた。(16:23)
アヒトフェルは真の預言者ではありませんでした。しかし、彼のことばはまるで“神のことばのよう”でした。私たちは、聖書に記された神のことばを信頼するのであって、誰か特定の指導者のことばを盲目的に信頼するのではありません。
残念ながら現代においては、あまりにも多くの説教者たちが聖書の真理を捨てて真の主を否定するようなメッセージを語っています*1。有名な説教者であっても、「あなたは愛されています!」「あなたの明日には希望があります!」と耳に心地よい雄弁な説教が語られても、それが本当にみことばの解き明かしであるかを私たちは聞き分けなければなりません。
たとえば、米国や韓国のメガチャーチ(巨大教会)の牧師の一部には、聖書のメッセージをこの世の成功哲学や積極思考と取り替えてしまっている人々がいます。また、福音が心理学的メッセージに置き換えられることも非常に多いのです。この影響は残念なことですが日本にも強く及んでいます。また、高名な神学者や名門大学の博士号を持つような人物たちの中にも、現代的解釈の名のもとに聖書の権威や歴史的キリスト教信仰を軽んじ、キリストの復活や十字架による救いさえも否定する人々が少なからずいるのです。
しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。(2ペテロ2:1)
いずれにせよ、誰か特定個人の語ることばを“神のことばのよう”に受け止めるのではなく、「本当に聖書は何と言っているのだろうか」と問うものでありたいと思います。
- 作者: Jr.,ジョン・F.マッカーサー,John F.,Jr. MacArthur,岡田大輔,伊藤敦子
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