第二サムエル15章
心を盗む
アブシャロムは、徐々に部下や軍事力を手に入れ、謀反の準備を始めます。彼は、ダビデ王のもとを相談に訪れる人々の心に取り入り、「私ならあなたがたの力になってあげられるのだが…」とアピールをします。彼は外見もこの上なく美しく、「人心掌握術」に長けていたのでしょう。
人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。(15:5-6)
人は人の心を盗むことがあります。また、心を盗まれることがあります。その人の心が、本来捧げるべき存在(神、配偶者など)から離れてしまうように誘導するなら、それは心を盗んでいることになります。たとえば、人々の心が部長から離れて自分に向かうように誘導する課長は心を盗んでいることになります。
もし、アブシャロムが彼の持っている魅力や能力を十分に用いて、人々の心がダビデ王に向かうように仕えていたなら、彼の人生は大きく祝福されたでしょう。しかし、残念ながら彼は、王を欺いてヘブロンへと旅立ち、そこで王になろうとするのです。イスラエル全体に「アブシャロムがヘブロンで王になった」という情報を流し、ダビデの議官をしていたアヒトフェルという非常に有能な人物を“軍師”として迎え入れます。
アヒトフェルは、実はあのバテ・シェバの祖父にあたる人物です。本来ダビデの軍師であった彼が主君を裏切った背景について聖書は沈黙していますが、あのバテ・シェバ事件が関係しているとも考えられます。
試練の中での信仰回復
ダビデはその知らせを聞いて、情けない姿で涙ながらにエルサレムを逃げ出します。これは、ダビデの罪と愚かさの刈り取りでもありますが、しかし同時に、彼の信仰の回復がこの出来事を通して起こりつつあるのを見ることができます。この15章においてダビデが語ることばによく注目しましょう。彼が少し前の時期よりも強く主なる神を意識していることが分かるはずです。
私たちも大きな試練、思いがけない屈辱を経験することがあります。できればそのようなことを避けたいのですが、しかし、主はご自身のお選びになった信仰者たちを、そのような試練の中でご自身へと立ち返らせようとなさるのです。
詩篇3篇は「ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌」というタイトルがついています。
主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。<セラ>*1しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。<セラ> 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。<セラ>(詩篇3篇)
あなたと“いたい”
逃亡するダビデのお伴をしたのは主に異邦人たちでした。ガテ人イタイなどは「きのう来たばかり」と言われているように、ダビデとはまだ関わりの薄い人物であったようです。ガテ人といえば、あのゴリアテと同じペリシテ人の系統ですから、ますますダビデに忠誠を誓うのは不思議です。しかし、彼は「ダビデ様、何が何でもあなたと“いたい”」と言うのです。
私たちクリスチャンもそれぞれ背景が異なります。クリスチャン家系の何代目かという人もいれば、熱心な仏教や新興宗教の家系から救われる人もいます。職業も様々ですし、信仰歴も長かったり短かかったりします。しかし、誰であっても、真の王であるイエス様に対してこのイタイのような告白をする人は幸いです。
「主の前に誓います。王さまの前にも誓います。王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます。」(15:21)
*1:「セラ」は、歌の息継ぎ・休符に相当する。読むときには、この「セラ」のところで少し間を空け、内容を味わうと良いだろう。