道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

2列王記13章

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13章はふたたび北イスラエルについてです。北に行ったり、南に行ったり、カタカナの似たような名前のオンパレードで頭が混乱しますね(汗)。

繰り返される罪

神に油注がれてアハブ家を滅ぼしたのはエフーですが、その息子エホアハズが北イスラエルの王となります。彼についてこう書いてあります。

 

彼は主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続けて、それをやめなかった。(13:2)

 

ヤロブアムの罪とはなんでしょうか。少し時間をさかのぼりますが、ヤロブハムは、王国が分裂した直後の北イスラエルで支配者となった人物です。彼は、自分の権力を安定させるために二つの金の子牛を造り、人々にそれを拝むよう奨励しました*1。さらにこの王は、資格のない一般人を祭司に任命するという罪を犯しました。

 

その後、主は、預言者アヒヤを通して彼に「あなたはこれまでのだれよりも悪いことをし、行って、自分のためにほかの神々と、鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。」(1列王14:9)と告げられました。

 

それから100年近くの時を経て、エホアアハズ王も同じような道を歩んだというのです。それに対して主は、現在のシリヤにあたるアラムの王を用いて、イスラエルに怒りを下されます。しかし、この主の怒りは、私たち人間の抱く自己中心な怒りとは違います

 

それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダデの手にいつまでも渡しておられた。しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。アラムの王のしいたげによって、イスラエルがしいたげられているのを見られたからである。主がイスラエル人にひとりの救い手を与えられたとき、イスラエルの人々はアラムの支配を脱し、以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。(13:4-5)

 

主の怒りは、指導者と民に痛みを与えて方向転換をさせるためのものでした。私たちが苦難の中で自分の罪に気がつき、主に向かって方向転換をするとき、主は憐れみを注いでくださるのです。ところが、王と民は再び罪を繰り返します。次に王となったヨアシュ*2も同じ道を歩みます。なんという愚かさ…。

 

しかし、これは私たちの姿とも重なる部分があります。

 

恵みの契約

そんな愚かな者たちを、それでも主は見捨てず、エリシャという預言者を通してご自身の御力と御言葉を現されます。

 

主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで彼らから御顔をそむけられなかった。(13:23)

 

私たちもイエス様を通して、この恵み、憐れみ、顧みの中に入れられています。この恵みによる新しい契約は取り去られることはありません。私たちの愚かさは果てしないとも思えるものですが、しかし、それ以上に神の恵みはずぅ〜っっっと偉大なものなのです。

 

その恵みを「本当にもったいない、ありえない御恵みです!」とひれ伏して受け取り、大いに喜び、大いに感謝し、大いに応答して歩む者になっていきたいと思います。

 

 

*1:1列王記11-12章

*2:南ユダのヨアシュ王とは別人。この時期は、北と南で同じ王の名前であることがしばしばあった。