第一サムエル記11-12章
東の方からアモン人がやって来て、イスラエル北部・ヨルダン川の東岸にあるヤベシュ・ギルアデという町を脅かします。アモン人は、モアブ人と同じようにロトの子孫です*1。ヤベシュの人々は恐れて、アモン人のナハシュ(蛇という意味の名前)の前に降伏を申し出ました。
ところが…
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そこでアモン人ナハシュは彼らに言った。「次の条件で契約を結ぼう。おまえたちみなの者の右の目をえぐり取ることだ。それをもって全イスラエルにそしりを負わせよう。」(11:2)
右目をえぐりとられるなんて、なんと恐ろしい…。これは当時、武力によって侵略をした者たちが相手に屈辱を与え、戦闘能力を奪うために行っていた習慣だったようです。ヤベシュの人々はたまらず使者を出して自分たちの状況を仲間のイスラエル人たちに訴えます。サウルにもその知らせが届けられました*2。彼は、王として皆が認めてくれるまでの間、故郷のギブアで農作業をしていたようです。
サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。それで彼の怒りは激しく燃え上がった。(11:6)
サウルは臆病で、良い意味では温厚で控えめな人物であったと思われますが、神の霊によって激しく怒りを燃やします。牛を殺して切り分け、それを国中に送りつけて「私に協力せよ。そうでないとこの牛のようになるぞ」と、半ば脅迫めいたことを告げるのです。私たちもサウルの鬼気迫る姿に圧倒されますが、彼は神様が与えてくださった義憤に突き動かされていたといって良いでしょう。
サウルを見る時、私たちは自分たちの心や行動が何に動かされているのかを吟味する必要を思わされます。
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(ヤコブの手紙1:20)
怒りにも「人の怒り」と「神の霊による怒り」があり、前に見たように腰の低い態度にも「臆病による卑屈さ」と「みことばによる真の謙遜」があるのです。自分の感情や周りの状況に支配され、動かされ、導かれていく歩みではなく、私たちの内に住んでくださっている御霊に動かされて歩みたいと心から思います。「神様、あなたご自身の霊で私たちを満たしてください。あなたご自身の霊が書かれたみことばで私たちを満たし、動かしてください」と今日も祈ります。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5:25)
サウルはアモン人を打ち破り、ヤベシュの人々を助けました。そのサウルの勇敢な姿を見た人々は、こう言います。
そのとき、民はサムエルに言った。「サウルがわれわれを治めるのか、などと言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」(11:12)
10章を見ると、イスラエルの民の中の「よこしまな者たち」がサウルを軽蔑したと書かれています。しかし、今や誰がどう見てもサウルこそが王にふさわしい状況です。だから、民は「あなたを王にふさわしくないって言った奴らを、今こそギャフンと言わせてやります!」と提案しているのです。皆さんがサウルの立場ならどうしますか。一度悔しい思いをさせられているわけですから、復讐心にかられてもおかしくありません。
しかし、神の霊に動かされていた“その時のサウル”は…
「きょうは人を殺してはならない。きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。」(11:13)
と語ります。これも「神の霊による寛容さ」といって良いでしょう。この後、サウルは「イスラエルのすべての者」(11:15)に喜ばれ、祝福されて王になりました。
12章は、サムエルの「引退宣言」です。即位したばかりのサウル王と主ご自身の前で、サムエルは自分自身の働きを振り返りました。そして、民に対して「もし私に問題があったなら償います」と語ります。サムエルの業績を考えると、この申し出は常識的に考えられないほど謙遜なものです。民はもちろん「あなたはそんなことをしていません」という答えをしています。
サムエルはイスラエルの民にメッセージを語り、その中で民の歴史を思い起こさせ、まことの主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわないことを教えます。この時、サムエルが祈ると雨期でもないのに雷と雨が起こりました。これは通常あり得ないことです。サムエルはさらにメッセージを続け、大切な内容を繰り返し念押ししました。彼らはその勧めに従うことができたでしょうか…。
私たちは、このように生きることができるよう、御霊の助けを切に求めたいと思います。
私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」(11:24-25)